(本稿は、2020年から21年にかけて『レコード芸術』誌上に連載した文章の再録です)
著作権法との出逢い
さて、ドイツに残されたさまざまな資料のなかでプラーゲの名前を最初に確認できるのは、フンボルト大学の学籍登録の書類においてである。これはベルリンにいくつかある資料館のなかのひとつ、当然ではあるがフンボルト大学のアルヒーフのなかに含まれている。それによると、1908年4月24日に学生登録は行われ、プラーゲは1910年の夏学期まで法学生として在学していたことが分かる。
出身地はライヒェンベルクになっているが(現在のチェコのリベレツ)、ここは第一次世界大戦後まではボヘミア王国第2の大都市であり、産業も文化も盛んな街として知られていた。プラーゲの学籍登録の出身地にはライヒェンベルクのあとにボヘミアを示すベーメンと、そのボヘミア王国が一部を占めていたブランデンブルクの両方の領域名が併記されている。ライヒェンベルクはこののち、1930年代のナチズムの下でドイツ復帰を唱える汎ドイツ主義のメッカとなるが、1938年のミュンヒェン会談以降、ヒトラーによるズデーテン地方の併合に伴ってドイツの支配下に置かれることになった。いずれにしてもプラーゲの育った地はドイツとボヘミアの接する一種のマージナルな地域であったと言える。それは彼がはるか極東の地に赴任する遠いルーツになっていただろうか(もっとも、あとに書くように、プラーゲがこの街に住んでいたのはわずかな期間であったようだが、両親から街やその周囲、環境、雰囲気を聞く機会はいくらでもあったろう)。
卒業は1910年10月18日。ヴィルヘルム・フリードリヒ大学の卒業証書が残されている。周知のように、われわれがよく耳にする「フンボルト大学」というのは、第二次世界大戦後に創立者のフンボルト(兄)にちなんで東ドイツが付けた名前であり、それが現在まで生きているものの、それ以前はフンボルト自身が命名したヴィルヘルム・フリードリヒ大学というのが正式名称であった。ヘルムホルツが教壇に立ち、アインシュタインなど多くが輩出したのもこの名の下でである。
プラーゲはこの間、5ゼメスターの間に28科目を取得しているが、最後のゼメスター(1910年の夏ゼメスター SS1910)の科目のなかにUrheber(著作権)の文字が見えるのがちょっとしたトピックだろう(以下の2番目)。
このときの担当教授はJos.Kohlerとなっているが、このヨーゼフ・コーラー(1849-1919)は法学のあらゆる分野で業績を残した大学者であり(論文数が膨大)、なかでもパテントや商標、著作権に関する研究で知られている。たった1ゼメスターの授業であるが、プラーゲはこの最終ゼメスターにおける全部で3つの講義をコーラーの下で受けており、その影響力は大きかったのではないかと思われる。コーラーはシカゴ大学から1904年に名誉博士号を贈られていたが、その際にアメリカ旅行を行って、セオドア・ルーズベルトからホワイトハウスに招かれているので、プラーゲが講座を取った際には、国際的な声望とともにすでに特筆されるべき重鎮であった。彼の業績は明治期の有数の法曹界一族のひとりであった穂積陳重などによって日本にも紹介されており、この国の法学界への影響力も強かったと言える。東京大学へ高給で招かれる話もあったのだが、残念ながら彼はこれを謝絶しており、潜在的ながら日本との直截的なつながりもあったことになろう。ちなみに、このコーラーというひとは法学研究を離れて、さまざまな分野のひとと交流があったようで、カール・リープクネヒトやグスタフ・シュトレーゼマンのような政治家をはじめ、エンゲルベルト・フンパーディンクのような作曲家との往復書簡も残されている1。いずれにしても、プラーゲと著作権との出逢いを、このコーラーの授業に確認できることは確かだろう。それ直截プラーゲの将来を決定したかどうかまでは判断できないにせよ。
(ちょうき せいじ/東日本支部)