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  • 研究ノート

「ヴィルヘルム・プラーゲ」ができるまで(1b)

長木 誠司

(本稿は、2020年から21年にかけて『レコード芸術』誌上に連載した文章の再録です)

疑問としてのプラーゲ

 さて、ここはこれまで語られ尽くした「プラーゲ旋風」について再論する場ではない。著作料取立者としてのプラーゲそのひととなり、日本での、そして旧満洲での活動と影響については、その事務所に雇われていた事務員の成定愛子のお墓まで調べ上げた森哲司の労作『日本の著作権の生みの親 ウィルヘルム・プラーゲ』(河出書房新社、1996)に詳しい。
 それにしても、いったいどうしてこのプラーゲなる人物は、わざわざ極東の地までやってきて、こんな嫌われ役を演じたのだろう?実は、日本近代の音楽史を調べていると決まって出くわすこの人物について、そしてプラーゲ事件について、いつも気になっているのはこの点であった。いかなる経緯でこのひとが著作料の取り立て人になったのか、その動機やことのなりゆきを知りたいと常々思っていた。それは歴史の本筋とはあまり関係ないことなので、分かったとしてもさほど近代の風景を塗り替えるものでもないのだが、私にとっては常に心の片隅にうっすらとひっそりと、それこそ影のようにして佇んでいる疑問であった。
 もっとも、ひとは常に漠然とした疑問をいくつか持ちながら、取り立ててそれを調べてみようとは思わない、そんな案件に囲まれて生きているのかも知れない。さだめしチコちゃんにでも叱られそうだが、幸い2019年にベルリンに住んでいたので、その疑問に正面からぶつかってみようかなと思い立った。いや実は思い立ったのは前回の滞在期2005年だったのだが、そのときはそれでもなかなか重い腰が上がらなかった。ほかにやりたいことがたくさんあったからだ。今回は他事がさほどなかったのかというと、そういうわけでもないのだが、一度に二つも三つも課題を持つことにこのところ慣れてきていて、そのために他の仕事をしながらプラーゲのことも並行して調べてみようと思った。
 とはいえ、結論から言うと、長年抱いていた疑問が解決されたかどうか、かなり心許ない、というか思ったような成果は上がらなかった。プラーゲが本格的に著作権に目覚めたのは、どうやらドイツにおいてではなく、まさに日本においてなのではないかと思えるようなことがいくつか出てきて、だとするとむしろ日本における調査の方が必要なのかもしれないとも思った。大家や森の著作があるにもかかわらずである。で、帰国後にいくつか課題を残しておいたのだが、このコロナ禍のなか、思うように動けなくなっており、それならばとりあえずベルリンでの調査報告ぐらいはどこかでしておこうかと思っていた。
 あまり学術的な色を出すつもりはないが、両大戦の日本を生きた一風変わったドイツ人のお話しとしてしばらく付き合っていただけると嬉しい限りである。

(ちょうき せいじ/東日本支部)

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