あるピアニストの話をしよう。名前はXとしておく。開戦後ただちに反対を表明した人物だ。それ以来、Xの活動の場はロシア国内の大ホールから小規模なサロンへと移っている。
ロシアに暮らして3年。サンクト・ペテルブルグにもモスクワにも、少数の聴衆に向けた「半私的」なコンサート・サロンが複数存在することに気づいた。そうした空間で開かれたXの演奏会のうち、印象深かったふたつを紹介したい。
初めてXの演奏を聴いたのは2023年春のペテルブルグ。「フォンタンカ運河通りのサークル」と名付けられた店は、ふだんはレストラン・バーとして営業しているが、ときおり特定の演奏者に開かれる。「ホール」を探していた私はなかなかたどり着けず、ガラス越しに見えたグランドピアノを手がかりにようやく中に入った。薄ぼんやりした照明と岩肌のような内壁。窓の向こうには「北のヴェネツィア」の美しい街並みと運河がのぞく。
Xはちょっとお洒落な普段着くらいの格好で、ミニバッグを提げて現れた。「寝てもいいけど、いびきはなし。できれば途中で出ていかないでね。みんなが我慢できる範囲で弾きます」と気さくに話す。40人ほどの聴衆がひしめき合っている。演奏者との距離が近く、トークには合いの手も入る。身内らしき人も多く、会場全体がひとつのコミュニティのような空気をまとう。
プログラムの配布はない。この日演奏されたのはギヤ・カンチェリの映画音楽や小品。ともすれば単純と思われかねない旋律に、Xの解釈は深遠な響きを与える。ペダルを駆使し、ひとつひとつの和音を、言葉を選ぶように積み重ねていく。まるでこの空間のために生まれた音楽のようだ。
技術が優れているわけではない。ミスタッチも少なくない。それでも、Xのように音楽を「語る」ことにこれほど誠実であろうとする演奏家をほかに知らない。身体を超えて立ち上がるその音は、ときにあたたかく聴き手を包み込み、ときに暴力的に切り裂こうとする。Xの前で、われわれはもはや聴衆ではいられず、音楽と個人的に向き合わざるをえない。
Xの存在を知ったのは今回の留学中、つまり「こう」なってからだ。だがその演奏哲学はサロン空間と切り離せないように思える。この音楽の作り方を、かつてXが立っていたフィルハーモニーの大ホールで想像するのは難しい。
「公」と「私」が綯い交ぜになるコミュニケーション空間は、筆者の研究対象である1960年代以降のソ連にもよく見られた。大都市には小規模なカフェが次々と生まれ、思想や芸術の自由で雑多な交流が育まれた。なかでも有名なのがレニングラード(現ペテルブルグ)にあったカフェ「サイゴン」である。
「サイゴン」は、たちどころに常連客がついた。やってきた面々は顔見知りや知らない人とおしゃべりをし、濃いコーヒーを飲み、時にはポートワインをこっそり持ち込んで飲んだりした。〔・・・〕「あそこへ行くと、どうなるか分からない――その晩はものすごく退屈かもしれないし、胸がわくわくするほど楽しいかもしれない、誰に会うのか、お開きは警察署なのか『ヨーロッパ』ホテルのバーなのかもね。」(アレクセイ・ユルチャク『最後のソ連世代』)
「フォンタンカ運河通りのサークル」でも、こうした対話が音楽をとおして展開されている。誰と知り合うわけでなくても、独特な高揚感と連帯感がある。
Xの演奏をモスクワで聴いたこともあった。会場は芸術サロン「自分の地」。またもや入り口が分かりにくい。ビュッフェを抜けて細い廊下を通ると小さな部屋にたどり着く。薄暗い照明に、真紅のグランドピアノと40席ほどの椅子が並ぶ。ここも出演者との距離が近く、トイレの扉を開けたらXその人が着替え中で、あわてて閉めた。
この日はヴァイオリンとのデュオでロシア・ソ連の作曲家が取り上げられた。とりわけ記憶に残ったのはシュニトケのヴァイオリン・ソナタ第2番「クワジ・ウナ・ソナタ(ソナタ風に)」。演奏前のトーク中、ヴァイオリストは作曲家が生きた時代の精神を「宗教的」(英語で言えば “sacred”)と評した。このソナタはfffで何度も鳴らされるト短調の主和音に関心がいきがちだが、この日注目したのは直後におとずれる休符だった。「長い休符は沈黙である。休符によってこそ、メッセージが伝えられる」。2人の演奏はこの言葉を体現していた。
シュニトケを知る者なら、モスクワのノヴォデヴィチ修道院にある彼の墓碑を思い浮かべるだろう。全休符にフェルマータ、そしてfff。
シュニトケの墓碑。2023年11月24日、シュニトケの誕生日に筆者撮影
この「物言う沈黙」こそ、Xの演奏の核でもある。静謐を具現化するような音響。あるいは乱暴な叫びののち、苦しみを引き取るように訪れる静寂。
前回取り上げたクルレンツィスの音楽が、人々を陶酔させる豪華絢爛な大聖堂だとすれば、Xのそれはイコンも鐘もない、土の匂いがするボロボロの教会だ。
最近、Xのコンサートはキャンセル続きだ。会場まで行ったのに「本日は別の演奏者です」と告げられたこともあった。いまの情勢ではやむをえないのか。一番悔しいのは本人だろう。こんな時代が続いてほしいとは思わない。それでも、Xの演奏が持つ魅力は、ユルチャクが描いた空間が20世紀においても生じざるをえない現実と、無縁でない気がする。
次はどこで、あの「沈黙」が聴けるのだろうか。
(にった めぐみ/東日本支部)