いまは2025年6月。ロシアはサンクト・ペテルブルグ。公園には夏の風物詩。老若男女が裸同然で寝転び、日光浴を楽しんでいる。新緑にはじかれ、光がみちている。
3年間の留学生活が終わろうとしている。2022年9月から2025年5月まで、ロシア最古の音楽院であるサンクト・ペテルブルグ音楽院の音楽学部、外国音楽史学科で大学院生として学んだ。博士論文の審査は2025年9月に予定されている。
国費留学プログラムに応募して、選考に通ったと連絡を受けたのが2022年1月末。その1カ月後に戦争が始まった。しかし、今の自分にはロシアでの研究が不可欠だった。研究対象はアルフレート・シュニトケの映画音楽。モスクワの映画オーケストラに彼の自筆譜が保管されていることは、首都在住の音楽学者にすら知られていなかった。指導教官の関係でペテルブルグ音楽院を選んだが、たびたびモスクワに足を運び、スコアを閲覧させてもらった。
開戦後、日本とロシアの間に直行便はなくなり、送金もできない。日本のクレジットカードはロシアで使えなくなった。外国人の暮らしにくさは増す一方だ。 2022年には、外国籍の長期滞在者に対し毎年の健康診断が義務づけられた(ただし、関連法案は2021年末に公布済み)。2025年からは年金番号を取得して公共サービスに登録しなければ、電話番号の契約ができなくなった。とはいえ、窓口に辛抱強く並んで手続きを済ませてしまえば、生活に不便を感じることはない。ロシア製のクレジットカードは作成可能だし、日本からの送金にも抜け道がある。日本人へのビザ発給も停止していない。
現実はオーウェルの『1984年』とは違う。欧米や日本の報道で語られる「監視」や「洗脳」と、実際のロシア内部の現実には常にずれがあり、そのギャップにしばしばもどかしさを感じた。
自分で選んだ道だが、この3年間は孤独だった。家族もいない。友人もいない。熱血な指導教官のおかげで、遊びに出る時間もない。博士論文は1年目の前期から執筆を始めた。毎週書いて指導教官に送る。水曜の「朝まで」が合言葉。空が明るくなるまで書き続けた。週末の面談は短くて1時間半、長いときには8時間。指摘されたロシア語の誤用を二度と繰り返さないよう、膨大なリストを作って何度も読み返した。ロシア語も、楽曲分析も、それを踏まえた考察も未熟で、教官を悩ませた。並行して、投稿論文や学会発表の準備もあった。ロシア語の発音は日本語と大きく異なるうえに、この国ではアナウンサーや役者でなくても発音の美しさが重視される。道行く人に奇異の目で見られても、音楽院までの道を歩きながら発音練習を繰りかえした。
留学のもう一つの目的は、現在のロシア音楽界の様相を耳で確かめることだった。小規模なホールにも積極的に通ったが、主に足を運んでいたのはサンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニーにマリインスキー劇場。フィルハーモニーでは、長年にわたり首席指揮者を務めたユーリー・テミルカーノフが2023年11月に逝去し、葬儀がおこなわれた。後任のニコライ・アレクセーエフはかねてより同楽団で指揮をしてきたが、前任者の死後、次第に平凡な二番手指揮者の印象を脱し、地味ながら精緻で職人的な仕事ぶりが光るようになった。なかでも、テミルカーノフが取り上げなかったショスタコーヴィチの交響曲第8番の快演は転換点だろう。一方、ワレリー・ゲルギエフのマリインスキー劇場。彼の演奏水準の低下は以前から顕著だったが、開戦後は一層悪化した。誰に強制されているわけでもないだろうに、毎日、さらには日に何回もタクトを振る。仕事中毒だ。2023年末にはモスクワのボリショイ劇場の芸術監督にも就任して、700キロ離れたロシアの二大音楽劇場を手中に収めた。
今日のペテルブルグの音楽界といえば、指揮者テオドール・クルレンツィスである。ギリシャ出身だが1994年にロシアにわたり、ペテルブルグ音楽院で伝説の名伯楽イリヤ・ムーシンに師事。2004年にロシアの地方都市ノヴォシビルスクでオーケストラ「ムジカ・エテルナ」を創設。のちにペルミに移ったが、2019年からペテルブルグの「ドム・ラジオ」に拠点を置くようになった。彼はその見た目もあいまって、団員にも聴衆にもカリスマ的な求心力を誇り、マーラーの交響曲やヴェルディの《レクイエム》のようなカノンから、現代ロシア人作曲家の作品まで幅広い作品を手がける。現状の「ムジカ・エテルナ」は、ロシアでは稀な私的オーケストラ・合唱団である(もっとも、毎回のコンサートにはロシア大手銀行VTBがスポンサーとして名を連ねている)。そのためかゲルギエフと違い、クルレンツィス個人は戦争以後もヨーロッパで客演を続けている。これに限らず、欧米や日本でロシアの何がアウトで何がセーフとされるのかは、よく分からない。
クルレンツィスの演奏スタイルは「帝国的」だ。大編成、合唱付き、カタルシスが彼の持ち味。彼のもとに集った奏者たちは、それぞれが身体を捧げ、個を埋没させ、まるで一つの生命体のような音楽を創り出す。この響きは絶対的で、神の告知のごとく、乱暴なまでに心を揺さぶる。あるロシア人批評家の卓見だが、「クルレンツィスはコンサート・ホールを聖堂にする」。その「神託」の崇高さに圧倒される一方、音楽という営み自体の危うさをいかに捉えるべきか、ひいてはこの国を、人々をどう理解すればいいのか、考えずにはいられない。
クルレンツィスのコンサートでいまひとつ特筆すべきはその聴衆だ。彼が振るときは「ドム・ラジオ」の小規模なホールに観客を収容しきれないため、フィルハーモニーを借りることが多い。フィルハーモニーの常連である質素な身なりの年配客は消え、どこから現れたのか、ドレス姿の妙齢女性の一人客や豪奢な装いの中年男女が席を占める。チケットの価格は年々上昇し、今では最低でも8000ルーブル(約1万5000円)が相場。それでも発売から数日で完売し、ダフ屋も盛況。かつて庶民の娯楽だったロシアのコンサート空間は、日本のように、特権層の社会的ステータスの象徴として消費されていくのだろうか。
まだ書き足りないが、本稿はひとまずここで区切りとしたい。数々の転換点と思想や空間の分断を目の当たりにした3年間だった。今後少しずつ、留学中の出来事やコンサートの記録を綴っていけたらと思う。
2024年10月18日、サンクト・ペテルブルグ。イサク聖堂とニコライ1世の騎馬像。中央奥にはフォトウェディング中のカップルが見える(筆者撮影)
(にった めぐみ/東日本支部)