前回はピアニストXの話をしたが、今回はコンサートを離れ、研究で知り合った作曲家の話をしたい。例によってYと名づけよう。この人物は私を何度か自宅に招いてくれた。日本人であること、黙って話を聞く態度が気に入ったらしい。
2024年秋。サンクト・ペテルブルク郊外の高級住宅地。中心部のような均質なマンション群はなく、さまざまな趣の一軒家が並ぶ。そのうちのひとつがYの家だ。手入れの行き届いた庭にはリンゴが実り、ベンチには猫が休む。窓からそれを眺めながら、健康に良いと勧められたチコリ珈琲をすする。家主である作曲家Yの「講義」を聞く。室内に目を戻すと、壁にはルドルフ・シュタイナーの彫刻『人類の代表者』の大判写真がかかり、本棚には哲学書と自作の楽譜が並ぶ。
Yの創作および思想の根幹にあるのは、魂あるいは精霊 (дух) の概念だ。曰く、魂は古代よりそれぞれの民族で脈々と受け継がれ、かつては万人に備わり、おかげで神や天使と会話ができた。『人類の代表者』を見てごらん。キリストを囲む堕天使ルシファーと、唯物論の悪神アーリマン。現代の欧米人はこれら悪の原理に堕ちて魂を失った。まだ魂が宿っている者は限られており、そのなかにはロシア人と、世界最古の文明の魂を継承する日本人がいる……
魂の概念はYなりの芸術観と倫理の基準であり、その要諦は伝統の継承にある。それゆえ、「前衛」に批判的だ。現代ヨーロッパの芸術は新奇性の自己目的化に陥り、魂を失い、何も生み出せていない。独自性を持つ作曲家の音楽言語は魂から生まれるが、魂は過去に繋がるのだから、歴史に学ぶべきだ。ロシアではこどもが音楽学校で習うような音楽史の詳細を、ヨーロッパでは大学でやっと教わる、云々。Yの話は何時間でも続く。
保守主義にはキリスト教信仰が強く結びついている。部屋の壁、シュタイナーの写真から少し離れると「赤の角」がある(正教会の聖像画を置く一角をロシア語でこう呼ぶ。神棚と同様、目線より高い)。Yにとっては伝統と正統のしるし。ロシア・アヴァンギャルドの代表的画家カジミール・マレーヴィチが展覧会で「赤の角」に『黒の正方形』を据えたのは有名な話だが、Yに言わせれば噴飯物だ。
主張の数々は奇異に映るかもしれない。突飛な、あるいは遅れた、あるいは間違った思想として切り捨てるのは簡単だ。だがこうした考えは、細部は異なるにしてもY個人にとどまらない。戦下ロシアに3年滞在した私の(主観的)観察では、ピアニストXを支持する層よりも、Yと価値観を少なからず共有する人のほうが多い。しかも、彼らは決して狂っていない。むしろ知識に富み、他者に優しく、思慮深い。
たとえば、2025年6月19日にロシア第1チャンネルで放映された映画『キリストの民。わたしたちの時代 Люди Христовы. Наше время』(ロシア初公開は前年12月3日、モスクワの救世主ハリストス大聖堂)。カンヌをはじめ国際映画祭の受賞歴を多数持つ、ユーゴスラビア生まれの監督エミール・クストリッツァが中心人物として出演している。公式サイトによれば「ウクライナ当局によるウクライナ正教会の迫害を扱ったドキュメンタリー映画」。ウクライナは「地上の幸福」=「西側の楽園」をエサに戦争を「売りつけられた」。映るのはウクライナ・西側の政治家、教会の破壊や迫害を行う警察、分かりやすくネオナチを思わせるタトゥーを入れた若者。対して、信仰や教会を守るウクライナの聖職者や市民の言葉が切々と流れる。とても明確な線引きだ(補足すると、ウクライナにはロシア正教会の系譜に連なる「ウクライナ正教会(モスクワ総主教座)」と、2019年にコンスタンティノープルに独立を承認された新生「ウクライナ正教会」の2つが並立しており、映画で「迫害」の対象となるのは前者)。映画の最後には総括として、ジェンダーダイバーシティを含む「伝統の破壊」を否定する立場が掲げられる。このまえ会ったYも同じ主張をしていた。
戦下ウクライナでロシア最大の詩人プーシキンの像が倒されたのを「これこそウクライナの野蛮性」と言い切った、これまた世界的なアニメーション映画監督ユーリー・ノルシュテインも思い出される(該当発言は2024年日本公開の映画『ユーリー・ノルシュテイン 文学と戦争を語る』および同名のラピュタ新書)。彼らは決して頭がおかしくなったのではない。よしんばそうだったとしても、「おかしくなっちゃった」「ショック」と片付けてしまえば最後、この分断が埋まることはない。
こんな話をして、後味よく記事を締められないのは百も承知だ。今回は音楽から離れた話が多かったので困惑した読者もいただろう。しかし、留学生活で強烈な印象を残した場面を、私はどうしても記録に残したかった。
映画『キリストの民。わたしたちの時代』のウェブページのスクリーンショット。テレビ放映と同時にネットでも公開されていたが、8月31日現在「公開権が切れました」と表示され、動画が開かない
にった めぐみ/東日本支部