MSJ Web Plus 日本音楽学会オンライン・ジャーナル

  • コラム / エッセイ

断層の上を歩く――ある音楽学徒のロシア留学記(4)

タグ:

新田 愛

 レクチャー・コンサートはソ連・ロシア音楽の一大領域だった。ショスタコーヴィチの友人だった音楽評論家イワン・ソレルチンスキーは、1920年代末からレニングラード・フィルハーモニーでコンサート前に聴衆向けのレクチャーを行った。その後、長いあいだこの分野の名手と言えば指揮者ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーであり、近年ではヴラジーミル・ユロフスキーがその系譜に連なる(いや、連なっていた……)。

 日本のレクチャー・コンサートとは違う。まず話が長い。私はロジェストヴェンスキーが亡くなる前に一度だけモスクワで演奏を聴いたが、すでにかなり高齢で足取りもおぼつかなかったのに、ステージに現れると椅子に座って長々と語り続けた。ユロフスキーもコンサートの最初に30分ほど話すのが定番で、場合によっては休憩後や曲間にも語りを続け、レクチャーだけで1時間を超えることもあった。どちらも、ほとんど何も見ずに。

 もはやレクチャーが本題で、演奏はその物語の反復のようにさえ感じられる。理由は長さだけではない。日本の曲目解説に見られるような説明ではなく、語り手の思想や経験を反映した「作品」なのだ。内容を簡単にして聴衆に歩み寄るのではなく、自分の世界を見せることで聴衆を否応なしに揺さぶる。ロジェストヴェンスキーやユロフスキーのように、レクチャーを行う人がプログラムを組む場合も多い。何をどう使い、自分の「物語」をつくるか。聞いていると、音楽学研究も本来これくらい「個人的」で、同時に「大衆的」な営みではなかったかと省みずにはいられない。ふだん「私」も「皆」も削除したふりでおすまししている自分が恥ずかしくなってくる。

 代表的なのが、ユロフスキーが2013年から毎夏に行っていたシリーズ «Истории с оркестром» だ。公式YouTubeチャンネルにある英訳は «Stories with the Orchestra»。ロシア語の名詞 «история» (istoriya) はふつう単数で「歴史」を指し、今回使われている複数形は「話」と訳せるが、さらに「講義」「出来事」など複数の意味を持つ。ユロフスキーは全ての意味をタイトルに込めたに違いない。プログラムには「指揮と語りはユロフスキー」と書かれており、話があってはじめて成り立つコンサート。2018–2019年の語学留学中、3回聴くことができた(読んでいて「あれっ」と思った皆さん。2022–2025年ペテルブルグ留学時のネタが尽きたわけではありません。言い訳すると、ある面白いコンサート・シリーズの話をするために、まずロシアのコンサートにおけるレクチャーの伝統について書かなければ、ならあれもこれもと欲張っているうちに、文字数がいっぱいになってしまいました)。

 たとえば2019年6月5日にモスクワのチャイコフスキー・ホールで行われたコンサート。前半はデニーソフ〈絵画〉とドビュッシー《夜想曲》。後半はムソルグスキーのピアノ作品〈クリミア南岸で〉と〈村にて〉のツィンマーマンによるオーケストラ編曲に、ツィンマーマン自身の《静寂と反転》。それからムソルグスキー《死の歌と踊り》のデニーソフによるバスとオーケストラのための編曲。音の万華鏡に、今でもプログラムを見るだけで心が躍ってしまう。ユロフスキーの語りは、これらすべての素材に赤い糸を見出す試みだった。ドビュッシーは冗談めかしてモーツァルトの遠い親戚を名乗った。デニーソフは音への態度がドビュッシーやモーツァルトと同じだと言った。ツィンマーマンは先達としてムソルグスキー、ドビュッシー、モーツァルトを挙げた。だから僕のシリーズでは「繋がり」を生みだしたい。時代なり、作曲家なり、作品なりで。皆さんがこれまでと違った聴き方ができるようにしたい。

 ユロフスキーは明言しなかったが、明らかにジュリア・クリステヴァの「間テキスト性」、ミハイル・バフチンの「対話」やハロルド・ブルームの「誤読」概念を参照している。前衛が古典に「影響」する。ユロフスキーの語りは聴衆を揺さぶる。続く演奏で、彼が言うように「ドビュッシーを聴いてデニーソフを連想」せずにはいられない。

 驚いたことに、ドビュッシーを演奏後、最初にやったデニーソフの〈絵画〉に話を戻した。ここでようやく、献呈相手である非公式芸術の画家ボリス・ビルゲルの名が出てくる。関連してデニーソフの世界にいるロシアの詩人プーシキンに言及した後、スクリーンにビルゲルの作品を映しながら〈絵画〉をもう一度演奏。まるで別作品のような響きがする。やっと休憩。前半が終わった時点で開始から1時間半以上経っている。こんな演奏の仕方はプログラムに載っていない。

デニーソフ〈絵画〉の基になったビルゲルの作品。モスクワ・フィルハーモニー公式YouTubeチャンネルの動画のスクリーンショット。レクチャーの抜粋もここで聴ける(URL: https://www.youtube.com/watch?v=eQ5XIs7qNo0)。

 休憩後も話す、話す。ドビュッシーの死後、ムソルグスキーの音楽からストラヴィンスキー 、ショスタコーヴィチ、そしてデニーソフの3世界が作られた。語りの射程はその日演奏する作曲家にとどまらず、チャイコフスキー、スクリャービン、ヴァーグナー、サン=サーンス、さらにはシュニトケも登場する。コンサートのハイライトをツィンマーマンの《静寂と反転》に置き、ツィンマーマンとムソルグスキーを鬱というテーマで結びつける。前者は戦争に、後者はアルコールに苦しめられた。両者を貫く絶望、神に見放された感覚。死のトーン。まるで謎解きのように見事な物語が展開される。語りに導かれて、続く音楽に、ともすれば精神の均衡を失ったような陶酔、ともすれば泣き笑いにも似た情緒の不安定さが感じられる。

 3時間を優に超えるコンサートが1つの完結したイベントとしてあっという間に過ぎ去った。しかも、この内容でほぼ満員! これは持論だが、中年から年配の女性1人客が多いコンサートは、真剣に音楽体験を求める聴衆の熱気が感じられ、充実した内容になることが多い。実際、この日のユロフスキーは生き生きしていて、来日時に客寄せプログラム(失礼)を課されて漫然と指揮していた人と同じとは思えなかった。

 前の連載で「クルレンツィスはコンサート・ホールを聖堂にする」というジャーナリストの言葉を紹介したが、正確な引用はこうだ。

 お茶派それとも珈琲派? 犬派それとも猫派? ユロフスキー派それともクルレンツィス派?
一方はコンサート・ホールを講堂に、もう一方は聖堂にする(原文ロシア語。エカテリーナ・ビリュコーヴァ『私の時代の主人公3人』モスクワ、2018年。401頁)。

 ユロフスキーの音楽は果てしない連想の宇宙と不可分に結びついていた。パンデミックの打撃を受けてもなお、彼はモスクワでレクチャーをしていたが、開戦後は戻ってこなかった。

 レクチャーを含む優れたコンサート企画は、博物館のキュレーターの仕事によく似ている。物語の力はロシアの大学講義の伝統をも貫く。奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』に登場するアントーノフ先生が好例。

 2022–2025年のペテルブルグ音楽院留学中にも、音楽史の授業で何も見ずに1時間半、滔々と語り続ける先生がいた。情報は豊富で、途中でしばしばピアノを弾き、テーマとなる作曲家以外の音楽家、評論家、作家、思想家にも自在に話を広げる。ロシアから西洋へ、過去から現在へ。こんなすごい人がいるのかと思って聴講させてもらった。しかし、この先生の評判は音楽院でさほど高くなかった。とりわけ私の指導教官はその先生とは正反対、実証主義を至上の原則とする人で、あいつは歴史的事実や外国の研究に依拠していないとけなしていた。私はそれ以来、その先生の話を指導教官の前でしなくなった。

 全体的な印象として、ペテルブルグ音楽院は保守的で、旧来型の音楽学が幅をきかせている。リチャード・タラスキンの名やニュー・ミュージコロジーを口にすると苦笑いされることもあった。しかし、音楽学という枠組みから自由に飛び立つ物語の魅力は私を捉えて放さない。博士論文では取り入れられなかったが、自分にないものだからこそ、そのような講義やコンサートに出会うたびにワクワクした。なんでロシア人はこんなにうまく話せるんだろう。頭の、舌の、呼吸器の構造が違うのか、本気で考えた。特に印象的だったのが、アルフレート・シュニトケ生誕90年を記念したコンサート・シリーズ。詳細は次回に。

(にった めぐみ/東日本支部)

(3)へ