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《津軽海峡冬景色》の主人公は「北」へ帰ったのか?

張 佳能

 少し前に某BS懐メロ番組の取材を受けて、阿久悠が作詞した《津軽海峡冬景色》(1976)についてあれこれ語った。阿久の出身校で教員稼業をしているし、歌謡曲における北の表象を論文で書いたこともあるので、いささか気恥ずかしいが「専門家」としての出演打診に応じた。番組のディレクターもまたあらかじめ演歌の研究書を研鑽してきた面白い人物で、取材当日はほとんど受け答えではあるが知らないうちに予定の一時間を越えてしまった。

 さまざまなお題をいただいて風呂敷を広げて思う存分に語ったが、実際放送されたのは時代背景の説明と「《津軽海峡冬景色》の主人公はどこに帰ったのか」のくだり。女性主人公が「さよならあなた/私は帰ります」と宣言して、上野から青森まで東北本線で移動し、これから青函連絡船に乗ろうという描写は「北」への方向性を示唆する。したがって歌詞の内容を忠実に解釈すれば、おそらく主人公の女性は「北」に何かしら帰れる場所があるはずだ。しかし「専門家」の立場からすると、「北」という方角はそこまで決定的な役割を背負っているわけではない。どういう経緯や理由で帰るのか、実は全く提示されていないため、そこは聴き手にそれぞれ解釈の余地が残されている。阿久の芸風として、移動を描く、動的に表現することが多いが、そのような歌詞の世界では、終着点がどこなのか、実はさほど重要ではないと思われる。大事なのは「帰る」という行動であり、どこに帰るのか実はさほど重要ではない。たとえ帰る場所が「北」にあるとしても、帰ることで終わるのではなく、もう一度何かの新たな道を辿ることが示唆されている。それは結果として「東京に戻る」ことも当然考えられる。重要なのはどこに帰るのかではなく、女性が自らの意思で、しかも一人で行動している、という点である。時代の先を読み取ったことを阿久悠自身も気に入ったのだろうか、後年では「時代を匂わす歌が出来た」と自慢している。

 ――と、取材では以上のような趣旨で答えた。女性権利の向上に関連してウーマン・リブやら「アンノン族」やら、時代背景の説明を含めて、一応こちらも「時代を匂わす」回答案を出した。しかしこれはあくまで歌詞を文学的に読み解く可能性の一つに過ぎず、歌謡曲と「北」表象の関係性について語った箇所は番組進行の都合上か取り上げられなかった。

 現代では歌謡曲における「北」の表象はしばしば「ふるさと」や「原風景」など、何かしら「帰るべき場所」として認知されがちだが、これはあくまで戦後、しかも昭和40年代以降に定着したイメージであり、決して当たり前のことではない。戦前から戦後初期にかけて、いわゆる貫戦期の流行歌を聴けばわかるが、戦前の《国境の町》(1934)にしろ、戦後初期の《さすらひの北の町》(1951)や《北海の歌姫》(1954)にしろ、「北」を題材とした多くの流行歌に提示された世界観は、さすらいの(外)地、果てしない海、故郷(クニ)を捨てて放浪するアウトローの旅だった。列島の内部では、北海道は依然として「開拓」のイメージがつきまとい、東北では貧困からの脱出を願ってむしろ大陸移住が続いていた。歌謡曲の世界では、列島の北は対象となることがほとんどなく、また歌われる「北」もほとんど外地か外地風のイメージ。これは昭和40年代以降の歌謡曲に描かれた「暖かい故郷」像とはあまりにも程遠い。

 そんな歌謡曲における「北」イメージは、昭和30年代に急激に外地から内地へ転回し始める。望郷の「民謡調」ものは当時すでにあったが、「北」という明確な「帰属」が現れた背景には集団就職の存在が大きかった。北日本出身者が集まる都内の歌声喫茶を中心に《北帰行》や《北上夜曲》といった戦前の歌(この二曲はいずれも1941年作で1960年前後の当時では作者不詳のまま流行)が再受容・解釈されるという流れの中で、昭和30年代半ばからの楽壇の復古調(リバイバル・ブーム)に乗って詠人不知の歌が商業主義に回収されレコードとして広がる。《北帰行》は「北へ帰る」系(?)歌謡曲のハシリとする向きもあるが、そもそも外地を舞台とした《北帰行》は戦前のさすらい系統に属するものであり、戦後になって歌詞が修正されてもその痕跡が色濃く残っている。一方、「北へ帰る」というテーマ/メッセージをわかりやすい言葉で表現し、妙な形ではあるがその後の北への望郷を歌う音楽の先駆けとなった点は確かである(時代背景の詳細は『ポピュラー音楽研究』第26号掲載の拙稿「「リバイバル・ブーム」考―昭和30年代の音楽シーンに着目して」を参照)。

 しかし集団就職は何も東京/東日本だけのことではなく、中部や西日本にもあった。大阪の奉公先で四国や九州から出てきた労働者の夢にある故郷はもちろん「北」ではなく「南」にあるはずだ。戦時中に作られた《南国土佐を後にして》が戦後再び集団就職の文脈で読み替えられたように、「南」への望郷歌はもちろん存在していた。しかし時代が変わり、明治以来の「南」への憧れが戦争記憶と共に薄まれてゆき、西日本のレコード産業界も衰退の一途をたどった。「北」の浮上と「南」の沈下は表裏一体で進んでいた。

 そして集団就職が歴史の表舞台から消え去った頃に出てきたのは、かの有名な《北国の春》(1977)である。千昌夫が古着屋で服装を購入してテレビで集団就職者の「コスプレ」したり、師匠の遠藤実にその格好を叱られたりするというような定番エピソードで語られて終わってしまいがちだが、無き集団就職者を演ずるという行為自体はこの歌の現実からの逸脱を逆説的に表象している。そこで歌われた「北」はもはや帰るべき故郷ではなく、かつての東日本の集団就職を想起させる集合的記憶であり、すでに高度経済成長を経て均質化が進み、環境破壊の反省から下町を評価し始める時代において、日本人の「心の原郷」として再構築された虚像である。一方、現実離れの「北」はこの歌の流行にむしろ有利に働き、東西南北問わず「故郷」を想う人々に愛唱され、のちに東アジアを中心に国際的なヒット曲となった。

 そもそも西日本出身の阿久には物理的な「北」の故郷がない。のちに単行本化された新聞連載『愛すべき名歌たち』では、「ぼくは、西日本の生まれ育ちであるから、上野駅に特別の感慨はない。ここが故郷につながっているという思いももちろんない。第一、ぼくは故郷意識が希薄な人間である。皆無といってもいい。」(『朝日新聞』1997.12.2)とキッパリ。しかしそんな阿久でも、「それなのに、長距離列車が発着するホームを熱心に見ているといった行動をとったのは、「北帰行」に歌われている青年の感傷を、疑似体験していたのだ」と告白する。この集団的な、ホームシックな「北」が心象風景として内面化して、阿久の創作の下地となってゆく。

 ここで再び《津軽海峡冬景色》に話を戻す。この歌はもともとLPレコード『花供養・365日恋もよう』(1976)からのシングルカットだったことはもはや忘れ去られ、現在では石川さゆりの代表曲としてひとり歩きしている。コンセプト・アルバムに全国ツアーの「ニュー・ミュージック」と違い、演歌はテレビでシングルを以て勝負する世界。しかしレコード会社専属制度が崩壊し、競争が多様化した世の中、その一曲のヒットを出すのは容易ではない。二、三曲が出ても鳴かず飛ばずの新人だった石川に、阿久悠と三木たかしは手を組んでLP一枚12曲を作り、その中からヒットが生まれる可能性にかけた(このLPからシングルヒットをねらうというやり方は当時の流行り)。暦の1〜12月を題材としているこのLPでは、《津軽海峡冬景色》は12月に配置されている。題名は現在「津軽海峡・冬景色」と中黒を入れるのが通例だが、その理由について後年の阿久はよくわからないと述懐しており、むしろ「津軽海峡冬景色」を一つの象徴語として捉えるほうが良く、中黒はいらないとまで結論づけた(『朝日新聞』1998.12.22)。これをあまり「深掘り」せずに考えれば意外と単純な話だったかもしれない―詞を書いた時に12月(冬)を明確に連想させる言葉として、「津軽海峡」の後ろに「冬景色」を中黒の形で補ったのではないか。「もしかしたら、春景色も冬景色も書くつもりであったのだろうか」と阿久がのちに語ったことからすると、やはり「津軽海峡」と「冬」は最初からセットだったわけではない。

 冬景色はLP創作上の都合や設定で選ばれたのだ、これまでの諸説は的外れだ、というようなことを主張するつもりは全くない。重要なのは、従来の「北」イメージは戦前にせよ戦後にせよ、あるいは戦前と戦後のちゃんぽん―放浪と帰郷の共在―でもそうだが、集団的な表象がほとんどだった。《津軽海峡冬景色》が抱えている「北」イメージは、行動する一女性の心象風景として機能している点は、従来の「北」とは似て非なるものである。十代だった石川のイメージが念頭にあったはずの阿久は「新感覚」を求めて、集団(大陸の流れ者、集団就職者)の視点から描かれてきた「北」イメージに「女ひとり(旅)」という新しい時代の表象を重ねた。これによって、集団の心情を表す記号が個人の内面的心情の表現となったわけだ。ここに至っては「北」を描くことはもはや目的ではなく、単に失意を表現する「お決まり」の場所として機能させたに過ぎない。

 「新感覚」があたり、この歌は人気が出てシングルカット、そして業界お墨付きの受賞。当時の報道では「ニュー演歌」という現在では馴染みのない言葉が使われている。これは半ば「ニュー・ミュージック」のもじりだろうが、それまでの演歌に見受けられない何かの異質性を物語っている。熱が冷めないうちに、阿久・三木コンビが続けて《能登半島》と《暖流》(♪…南国土佐の昼さがり)を石川に吹き込ませて、いわゆる「旅情三部作」として彼女の一つの定型を確立させようとしたのだが、「北」へのこだわりは微塵もない。そもそも《津軽海峡冬景色》に限らず、いわゆる「ご当地ソング」は列島の東西南北の地名オンパレードで作られてきたし、今なお作られ続けている。逆に阿久が八代亜紀に提供した《おんな北帰行》(1983)を知っている人はどのくらいいるだろうか。 さて、取材がオンエアされた後に授業で番組映像を流して、懐かしくもない世代の学生諸君に無理やり「《津軽海峡冬景色》の主人公はどこに帰ったと思う?」というお題を出した。もちろん圧倒的に「北」(東北か北海道)の回答が多かったが、なかでは「自分に帰った」や「実は死んでしまった」といった当節の若い衆ならではの発想もあって興味深かった。均質的な現代日本において、もはや若人は「都」とは対極的に存在する「故郷」を持ち得ないかもしれない。かつての「故郷喪失者」たちの望郷の歌も一周まわって、流行が繰り返されるなか、新しい「故郷喪失者」たちの心を慰めてくれる日が来るだろうか。

(ZHANG Canon/ポピュラー音楽学会・明治大学講師)