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  • 書評

Books: 庄野進『聴取の詩学:枠と出来事 庄野進音楽美学論集』

(東京:春秋社,2024年12月10日,¥4,200円+税,ISBN 978-4-393-93052-6)

木村 直弘

 ああ,庄野先生亡くなられたしな。ネットで本書の刊行を知ったときにまず頭に浮かんだのはそれだったが,おやっと思ったのが副題である。今どき「音楽美学論集」? この出版不況の御時世にあって,いかに著者が有名音大の学長,理事長を歴任し関係者も多いからといって,30年以上も前に刊行された『聴取の詩学』(勁草書房,1991年)の増補新版が,副題にとはいえ(一般に難解と思われている)「音楽美学」を冠して売れるのか…(あるいは,新たに2022年から〈音楽学叢書〉を刊行し始めた担当編集者による東大・美学の先輩へのオマージュあるいはノスタルジアか…)。

 ちなみに,原著の副題は「J・ケージからJ・ケージへ」であり,そこでは帯も含め「音楽美学」という言葉はみられない。ところが,本書の帯には「現代音楽論の金字塔『聴取の詩学』を筆頭に多数の論考を収録。[……] 音楽美学者・庄野進(1948–2023)の思索の系譜をたどる」と,「音楽美学」が強調されている。ということは,今回第Ⅰ部として再録された「現代音楽論の金字塔」たる原著より多いページ数を占める(遺稿をまとめた)「増補」部分,すなわちインタビューを含めたケージ論(「Ⅱ ケージとの対話」)の補強と,大学本務に忙殺されたため生前まとめることがかなわなかった音楽デザイン論(「Ⅲ 音環境のデザインへ」)に,庄野のより「音楽美学的」思索内容が反映されているということか…。

 否。詳細な本書解題で渡辺裕が指摘するように,結局,現代音楽だけでなく音環境デザインまで対象を多様化しつつも,本書全体に「聴取の詩学」という庄野の音楽美学的「視座の一貫性」(383頁)が看て取れる。本書の帯の背表紙は,原著副題をふまえ「ジョン・ケージから音環境デザインへ」,そして原著の帯にあった惹句「聴取の解釈学から聴取の詩学へ」は,本書では「サウンド・スタディーズの原点へ」と増補をふまえて範囲が拡大されているように,わけのわからない現代音楽に限らず音環境デザインまで音楽美学的に論じることができること,言い換えれば,それらと音楽美学との親和性(相性のよさ)を証明したのがこの増補新版の存在意義だろう。

 では,「聴取の詩学」というその音楽美学的視座を特色づけているキーワードとは何か。それが,本書副題に新たに掲げられ第2部に同名の論考2篇が収められた「枠と出来事」,就中「枠」である。たとえば,

ケージの音楽を特徴づけているのは,作品的な有機的統一性に替わる考え方のように思える。それは「枠」ということによって説明できる。実際,ケージの音楽は様々な「枠」を含んでいる。彼が行なっているのは,枠を通して世界を覗くこと,世界に対して様々な枠づけをすること,様々な枠の中に種々のものごとをとり集めてくること,別の枠に移し替えること等である。(197頁)

あの《4分33秒》がいい例だが,われわれはその「時間的枠組み」があって初めて「沈黙のざわめき」(音響的「出来事」)を聴きうるし,そこに意味を発見することがケージの音楽なのだと庄野は言う。そもそもcageに枠は不可欠だが,庄野の「枠」好き?はこれに止まらない。こうした「聴き手による意味創出」としての「聴取の詩学」だけでなく,実は「作品的な有機的統一性」という考え方に依拠した「聴取の解釈学」についても,「聴取の対象の了解という枠内で為される理解の仕方」と「枠」を用いて説明している(13頁)。

 ここで急に議論の枠が外れたかのように思われるかもしれないが,改めて前掲引用文中の「ケージの音楽」の箇所を「庄野の思想」という言葉に置き換えてみよう。庄野は,原著に先立つ1987年,同じく勁草書房より,戸澤義夫との共編訳書『音楽美学──新しいモデルを求めて』を上梓している。その「序にかえて」では,「音楽美学という学そのものも又自己のよって立つ前提・枠組を再検討する必要」があり,「その際,単に別の新しい枠組を示すのではなく,そうした一つの統一的な枠組があるという前提をも問題にしなければならない」とされ,「従来にない音楽美学的問題が含まれた論考」を紹介することによって「現代的美学的問題の所在を明らかにすることを狙った」旨ことわられている(ⅱ頁)。

 実際,同書所収の,実験科学としての「心理音楽学」「発達心裡音楽学」「社会音楽学」に関するラスケ論文やサウンド・スタディーズ的視点を提示するブラウコプフ論文には ,本書第Ⅲ部にも通底するトピックが含まれていた。特に,庄野が住川鞆子と共訳した前者の解題では,ラスケが音楽美学を「情動的構成要素をもった音楽的経験の認知理論」に限定していることに対して異を唱え,実は同論文に「音楽美学的対象が,音風景という領域にまで広がり得る見通し」への示唆を見出し,「むしろ本論文から様々な音楽美学的な思索への手掛かりを得るであろう」とされる(154頁)。こうした思考の方向性=枠組みは本書所収の諸論考にも通底しており,まさに庄野は「音楽美学」という枠をフレクシブルに扱うことによって,その枠を通して世界を覗き,世界に対して様々な枠づけをし,様々な枠の中に種々のものごとをとり集め,別の枠に移し替えようとしたのであった。

 庄野自身「音楽美学者」という「枠」に括られることをよしとしていたかどうかはわからない(ちなみに,学会をリードする学府として古代から現代までの西洋美学史的研究のカヴァーもミッションとされた東大美学にあって,庄野はアドルノを研究対象にしており,その諸論考はまさに最も音楽美学的なものとも言えるが,それらは本書からは敢えて省かれている)。冒頭,「(一般に難解と思われている)「音楽美学」」と記したが,それは,将来「音楽における沈黙」について研究したいと思い野村良雄『改訂 音楽美学』(音楽之友社,1971年)を手に取ったまではよかったがさっぱり内容が理解できなかった評者の僻みだろうか(その後,1981年に春秋社から国安洋『音楽美学入門』が出て,少しほっとすることになる)。

 ちなみに,同書最後に置かれた付説「新しい音楽美学のために」には, 「美学の課題が 「音楽の現在」を 「哲学の現在」においてとらえるにあるとするなら,たとえ専門の哲学者ではないとしても,われわれは「哲学の現在」をわれわれなりにとらえない限り,美学は成り立ち得ない」(205頁)とあった。近年珍しく音楽美学関係で注目を集めている書物である源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか : 音楽美学と心の哲学』(慶應義塾大学出版会,2019年)は,「情動」と「マルチモーダル知覚」(これはすぐれてサウンドスケープ的トピックでもある)に焦点を当て,まさに「心の哲学」を利用して音楽美学の問題に取り組んでいる。それは,前掲ラスケの関心の延長線上にある,野村の言う「新しい音楽美学」のモデルにほかならない。しかし,現代の多様な学説が手際よく紹介され,わかりやすい事例をふまえて「音楽に関して,そもそも良い/美しい/正しいとはどういうことなのか」について考察する同書でも,結論部に,哲学の本来の姿である「知識の探求を目指すなら,あらゆる学問の成果を踏まえた包括的な考察を行わなければならない」(195頁)とあり,なかなか敷居が高い。やはり音楽美学はこの路線しかないのか…。

 いや,ご安心あれ,音楽美学にはいろいろな枠があっていいのだ。庄野の文章は思弁的内容を扱っても難解にならない。たとえば今回第Ⅱ部とのつなぎも兼ねて第Ⅲ部冒頭に置かれた「沈黙・音・音楽」(255–269頁)のように,前述のような思考的枠組みの下,「音楽における沈黙」について具体例をふまえつつ論理展開されたその「音楽美学的な思索」は,そのあまりに明快な文章とも相俟って,きわめてわかりやすい。その文章によって,もはや現代音楽や美学は難解なものではなく,ひたすら「枠々」ならぬワクワクさせるものとなる。音楽美学という枠内で現代音楽や音環境についてこんなに豊かな語り方ができるのか,と素直に感動してみたい方々に,ぜひご一読をお薦めしたい。 

(きむら なおひろ/東日本支部)