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私の研究①セルゲイ・ラフマニノフと「銀の時代」

神竹 喜重子

 

 私は主に19世紀末から20世紀初期のロシア音楽史を研究しており、これまで音楽社会学的観点から論ずることが多くありました。何故そのようなアプローチを取るのかというと、まず第一に、ロシアには長らく西欧に対するコンプレックスが根付いており、その反動でいわゆる「自分探し」を熱心に行っていたこと、次に20世紀という新時代を迎えるにあたり、西欧音楽の影響下から自立し、真の「ロシア的な」音楽を追求しようとする議論が盛んに行われていたことが背景としてあります。また、1890年代から1910年代のロシアは、「銀の時代」という重要な転換点にありました。そこでは象徴主義をはじめとする様々なモダニズム運動が栄え、音楽は象徴主義の影響により、しばしば純粋な音楽芸術としての所与の機能以上に、新たな美的価値観を創造することや社会的シンボルとなることが期待されていました。このシンボル化した音楽の流通や共有において、大きな役割を果たしていたのが、当時急速に発達していたメディアであり、音楽に関する美学的また哲学的議論や、批評などを掲載した数多くの音楽雑誌が出現したのです。そこでは、活発に生産される音楽的イメージや言説が、時にはリアルな音楽的実践(作曲や演奏など)経験から逸脱し、独り歩きしてしまうこともありました。こうした哲学的議論上で描かれた音楽的イメージや言説が、音楽的実践に劣らず、聴衆に対して多大な影響力を持つことができたのは、まさにメディアに依るところでした。メディアの音楽をめぐる言説というのは、やはり一般的には音楽的実践に対してどうしても二義的なものと捉えられがちですが、これによって当時のロシアの聴取文化のあり様や、知識人の音楽批評家たちがどのように自らの音楽批評で聴衆を啓蒙しようとしていたのかがわかる点で蔑ろにできないものがあります。そのような意味においても、この時期のロシア音楽史はメディアの存在なくして語ることができないものとなっています。

 以上のような背景から、私は博士課程において、ロシア音楽における「ロシア性」の概念が追求されるに当たり、メディアがどのような役割を果たしたのか、その影響はいかほどであったのかを明らかにしたいと考えました。そこで19世紀末から20世紀初期のロシア音楽における音楽批評の発展を段階別に整理し、その過程の美学的議論の矛盾の解明に努めました。そのうえで、こうした美学的議論の影響を著しく被っていたロシアを代表する作曲家・演奏家の一例として、セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)を取り上げ、彼自身また彼の音楽が当時のロシア音楽界においていかなるイメージや言説をもって解釈され、どのような立ち位置を与えられていたのかを論じました。具体的には、ロシア・ソ連を代表する4 人の音楽批評家たちによるラフマニノフ論を中心に分析し、ラフマニノフをめぐる19 世紀末から20 世紀初期のロシアの音楽批評の様相を、改めて様々な潮流が現れ、激動の最中にあった「銀の時代」というコンテクストにおいて捉え直しました。そのようにして明らかになったのは、①19 世紀末から20 世紀初期という時期が、ちょうど象徴派サークルの危機に当たり、象徴派内で生じた神智学を巡る内紛、及びそれによりもたらされた危機が、音楽批評に多大に影響していたこと、②ゆえに音楽批評が思想的なプロパガンダの機能を成していたこと、③さらに当時のロシア音楽界にとって、モダニズムという概念が、新たな社会像の表出を意味していたことでした。

 要するに「どの作品が人気か/そうでないか」、あるいは「批評家から高く評価されるか/そうでないか」の背景には、一定の要因、例えば政治情勢などがあるのはもちろんのこと、聴衆のなかにも世代、社会的地位、所属機関によって様々な層や派閥があり、彼らはその条件に応じて音楽に対してある価値観や思想を共有していたりするのです。また同じグループ内に属していても、その中で内紛が起これば、見解を異にする者同士の間で「理想的な音楽」のイメージも異なってきてしまいます。つまり当時の知識人の音楽批評家にとって、音楽はいわば「推し活」そのものであり、彼らは音楽を自分の思想や志向性を正当化させるためのアイコンのように扱っていたのでした。

(かみたけ きえこ/東日本支部・一橋大学経済研究所ロシア研究センター専属研究員)