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筆者はこの3月に、今年生誕100周年を迎える作曲家・芥川也寸志(1925-1989)の映画における功績について論じる『芥川也寸志とその時代 戦後日本映画産業と作曲家たち』を刊行した(国書刊行会刊)。これは2020年秋に京都大学に提出した博士学位論文を改稿ののち書籍化したものであるが、抜群の知名度に比して作品論は少なかった芥川についての研究が、拙著を機に活性化してくれることを切に願う。しかし一方で、芥川の幅広い功績について拙著で十全に語り尽くせたとはとても思えない。それはひとえに筆者の研究の掘り下げの浅さや筆力のなさに起因するものだが、今回このように日本音楽学会から執筆機会を与えていただいた以上、いま思いつく範囲での落穂拾いのようなことを、この場を借りて行いたいと思う。
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拙著の眼目は、芥川の生涯における映画やテレビの仕事の質的・量的大きさに改めて注目し、その芸術の精妙さについて実証的に示すことだった。芥川個人の業績だけでなく、彼が團伊玖磨(1924-2001)、黛敏郎(1929-1997)と結成したグループ「3人の会」についても、映画や放送での協力が彼らの活動にとって重要な位置を占めていたということを強調し、従来5回の作品発表会の業績のみで――むろん、これら一連の演奏会が当時の日本楽壇に与えた影響は大きいのだが――語られがちだった「3人の会」論に新生面を拓くべく腐心した。彼らが精力的に活躍した昭和30年代の映画製作の現場において、音楽に関連する作業はその最終盤に位置しており、当初の発表とは異なる作曲家が音楽を担当する事態は日常的に起こっていた。拙著では團の映画における代表作として知られる『雪国』(1957、豊田四郎監督)が、当初芥川が音楽を手がける予定だったことなどを引き合いに出し、「3人の会」が映画の仕事の互助組織として機能していたことを指摘した。
今年は芥川の生誕100周年であると同時に日本における放送事業開始から一世紀を迎える節目にも当たるが、芥川や「3人の会」の放送における仕事ぶりについて、拙著でもう少し触れておくべきだったかもしれないと今となって思う。そのことを踏まえると、1953年に始まった日本放送協会のテレビ放送で、放映開始当初に一日の放送開始と放送終了を告げていた音楽は芥川によって書かれたものだったという事実をここで強調しておきたい1。そもそも、芥川が世間にその名を広く知られた契機は《交響管弦楽のための音楽》が(團伊玖磨の作品とともに)あるコンクールに入賞するという出来事であり、そのコンクールこそ日本放送協会が放送開始25周年を記念して開催した管弦楽作品の公募懸賞だった。彼の作曲家としてのキャリア形成には放送事業が深く関わっていたのである2。
芥川は「3人の会」のメンバーとともに放送でも精力的に活躍した、と書いたが、これは放送のための音楽を積極的に作曲したという意味に留まらない。芥川・團・黛は三人そろってスマートな出で立ちをしており、それぞれの毛並みのよさも相まって、タレントとしても抜群の知名度を誇ったのである。実はこのことは本に書きそびれたのだが、テレビ東京系で放映された「木曜洋画劇場」の初代パーソナリティが、他ならぬ芥川だった。音楽家と映画界との結節点を探る本書においてこの事実を書き落としたことは痛恨事だが、恥を捨ててこの場で改めて言及しておきたい。2000年代まで40年の長きにわたって放映された長寿番組の初代司会者が、映画評論家ではなく映画音楽の第一線で活躍していた作曲家である芥川が起用されたという事実は、彼が当時お茶の間にもよく知られる存在だったかということを象徴的に示している。
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放送事業と同い年の芥川が事業開始から四半世紀を祝して催されたコンクールに入賞し、新進作曲家としての地位を確立することになったという経歴にはどことなく因縁めいたものを感じるが、1925年すなわち大正14年に生まれ1989年すなわち平成元年に没した彼はその年齢が昭和の年数と一致しており、バイオグラフィーを通観すると、彼はいかにも昭和の時代に活躍した作曲家なのだという思いを抱くことにもなる。
本年に入って、「昭和100年」「放送100年」を特集する番組が数多く放送されていることは、拙稿をお読みのみなさまも肌で感じておられることだろう。しかし、そこに芥川への言及がみられないというのはいささか画竜点睛を欠くように筆者には思われる。彼は昭和や日本の放送事業と“同い年”であるだけでなく、本稿で触れたように放送との繋がりを強く持つ存在であるからである。7月19日の彼の100回目の誕生日までにその状況が好転していくことを願うばかりだが、日本の音楽文化についてきわめて真剣に、スマートでありながらも愚直に探求し続けた一人の作曲家の功績について改めて考えを巡らすことは、とりわけ放送業界が行き詰まりを呈している現状に何らかの突破口を示してくれるのではないだろうか。
(ふじわら まさお/西日本支部)