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今日の音楽家 「マスネ」 

小林 佳織

 

(本稿は、2023年5月に日本音楽学会のX上に掲載された10回分の文章を、著者の許可を得て転載したものです)

 ジュール・マスネは1842年5月12日に、モントー(現在のサン=テティエンヌ)に誕生します。前妻の子を含め12人兄弟の末っ子でした。父のアレクシは、鎌の製造に関わり鉄鋼業界の歴史に名を残しています。母のアデライドは、アレクシの再婚相手(前妻は病死)で、ピアノが堪能でした。マスネは母親ゆずりの才能を開花させます。6才でパリに移ると母にピアノを教わり、53年にパリ音楽院の入学を許可されます。先にピアノでも成績を残していますが、1863年にはローマ賞でカンタータ《ダヴィッド・リッツィオ》を作曲し、ローマ留学を勝ち取ります。

 ローマ留学時、マスネはリストから、レッスンを望む一人の女性を紹介されます。彼女がのちに妻となるルイーズでした。1868年には二人のあいだに一人娘のジュリエットが生まれます。その後、マスネは音楽院教授を務めながら創作を続けて、フランスを代表する作曲家として次第に認められていきました。1912年8月13日に約70年という長い生涯を終えますが、死の直前まで創作を続けていたこともあり、生み出された作品は歌曲200曲以上、オペラ25作以上、管弦楽組曲もあればオラトリオやバレエも……研究しきれません……!そもそも、なぜこんなに創作できたのでしょうか。

 まず、マスネは早朝から仕事をしていました。今の言葉で言えば、朝活やワーカホリックと言えるでしょうか。1942年5月8日の新聞『パリ=ソワール』に掲載されている、マスネの生誕100周年記念の演奏会に先立つ記事では、マスネは朝5時に起床して働く、という若い頃の習慣を晩年まで続けていたとし、孫のピエールがその様子を回想しています。また、雑誌『コメディア・イリュストレ』にて、1910年に行われた喫煙の影響に関する調査に対し、マスネ本人がタバコは吸わないとはっきり述べています。このような生活習慣が、長寿と多作につながっているのかもしれませんね。

 マスネの創作姿勢についてさらに挙げてみます。本人の言及や史料からは、作曲する前に台本を誦じられるようにしたり、稽古にはなるべく出席するようにしたりと、創作活動に対する意欲の強さが感じられます。一方、作曲家としての自身の在り方であったり、創作の良し悪しに関するインタビューへの反応は悪く、表に立つことは避けていたようにも見えます。初演に立ち会うことを怖がっていたことは、エピソードとして有名です。時には生徒を初演に送り込み、結果を報告させるといったこともあったようです。

 前述の記事でピエールは、マスネの楽譜への感傷的な書き込みや、落ち込んでいたマスネを師のトマが励ます書簡を引用しながら、祖父が感受性豊かな人物であったことも説明しています。性格の捉え方は意見が分かれると思いますが、マスネの控えめかつ繊細な感性、複数ジャンルの作品を時代の変化に合わせて器用に創作していたこと、当時のフランス・オペラを含む劇場文化の特殊性などが、マスネの長期的な活躍と評価の鍵を握っていると、私自身は考えています。 《グリゼリディス》や《サンドリヨン》《ナヴァラの女》《エロディアード》など、マスネ作品の上演は近年日本でも続いています。安らぎを与えてくれたかと思えば、ときに心を強く揺さぶるマスネの繊細で柔軟な音楽は、今後も人々を魅了していくことでしょう。(了)