(本稿は、2023年3月に日本音楽学会のX上に掲載された10回分の文章を、著者の許可を得て転載したものです)
ヨハン・アドルフ・ハッセは1699年3月25日にハンブルク近郊のベルゲドルフにある聖ペトリ・パウリ教会で受洗した記録が残っていますが、誕生日そのものは不明です。この教会は今も同じ場所にあり、J.A.ハッセの生家でもある隣の建物は、1階が観光案内所、2階はハッセ協会が入っています。
誕生日ではないかもしれませんが、今年(2023年)3月25日はハッセ受容において、ちょっとした歴史的出来事が起こります。オペラ作曲家として活躍したイメージの強いハッセですが、ザクセン選帝侯の宮廷楽長を約30年つとめる上で、宮廷の宗教行事ための作品を書かねばならず、また、ヴェネツィアのインクラビリ養育院のための作品を残しており、宗教音楽にも重要な作品があります。例えば、オラトリオの真作11作のうち、宮廷用に作られたものは9作(うち1作はウィーン、8作はドレスデンのため)で、大きな礼拝行事で使われるこれらのオラトリオは、上演日の記録が残っています。
一方、宮廷用でない2作はヴェネツィアのインクラビリ養育院のためのものでした。《荒れ野の炎の蛇》《聖ペテロとマグダラのマリア》の2作で、後者は1758年にインクラビリで上演された際の台本の存在が確認されています。ペテロ、ヤコブのマリア、マグダラのマリア、サロメ(聖母マリアの姉妹)、ヨゼフと5人のイエス・キリストに纏わる登場人物からなるこのオラトリオは、役柄の上では3名の女性と2名の男性ですが、ヤコブのマリア、マグダラのマリア、ヨセフがソプラノ、ペテロとサロメがアルトで書かれています。 これはインクラビリが女子のみによる演奏だという事情に沿ったものと言えます。
オラトリオの最終曲は通常は合唱ですが、インクラビリのための作品は2作ともレチタティーヴォで終わっており、ある筆写譜にはテノールとバスのパートのないミゼレーレに続くよう指示があります。宮廷用のオラトリオが3月4月に集中していることからも、これらは四旬節に合わせたものと考えられます。
《聖ペテロとマグダラのマリア》は全曲CDが出ていますが、カウンタテナーのJ.オルリニスキのCD「アニマ・サクラ」に収録されたペトロのアリア「わたしの苦しみよ、さあ早く!」が、フィギュアスケートの宇野昌磨選手の今シーズンのフリープログラム(FP)に採用されたことで話題になりました。
選曲は宇野選手ではなくコーチのシュテファン・ランビエールによるもので、宇野選手が今期のFPの使用曲を発表した際には、#メアトルメンタプロペラーテ と彼がたどたどしく読み上げた曲名がネット上を駆け巡りました。J.S.バッハのG線上のアリアから静かに始まり、プログラムの中間地点で突如として激しい曲想に変わります。カウンタテナーの輝かしい声とともに美しく力強いスケーティングを披露するこのプログラムは、「昌磨にはバロック音楽が合っている」と見抜いたシュテファンコーチの慧眼が示す今期の快進撃の一翼を担うとともに、世界中の人々の耳にハッセの音楽が届く機会ともなりました。
3月22日から開催されている世界フュギュアスケート選手権に出場している宇野選手は23日のショートプログラムで首位に立ち、25日にいよいよFPを迎えます。ハッセの受洗日にこの曲で滑るという神の采配としか思えない偶然の一致に感謝を捧げ、さいたまスーパーアリーナよりレポートを終わります。 (了)