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今日の音楽家 「ストラヴィンスキー」 

池原 舞

(本稿は、2023年4月に日本音楽学会のX上に掲載された10回分の文章を、著者の許可を得て転載したものです)

① イーゴル・ストラヴィンスキーの功績を讃え、各140字で、10個の小ネタと、敢えてややマイナーな作品を10曲(+α)紹介したい。創作前に条件を欲した彼に倣い、縛りをつけて。
さて、彼の作品で最も短いのは、「わずか30秒の開幕曲」との要望に応えた《新しい劇場のためのファンファーレ》(1964)。
②オリヴィエ・メシアンに「カメレオン音楽家」と評されたが、変幻自在の皮膚の内部には太い骨があった。弦楽四重奏曲《3つの小品》(1914)は、《狐》(1915-16)のごとく民謡調で、《管楽器のための交響曲》(1920)と同種の硬質な響きを持ち、《カンタータ》(1951-52)での音列技法を想起させる。
③単語帳を自作してまで学んだヘブライ語。その音響に関心を持ち、《アブラハムとイサク〜聖なるバラード》(1962-63)の歌詞として使用。実はかなりの言語オタク。彼が作品に用いた言語は、歌詞翻訳含め、ロシア語、英語、ラテン語、フランス語、古教会スラヴ語、イタリア語、ヘブライ語、ドイツ語。
④「抒情性は規則なしには存在せず、それは厳格でなければならぬ」というシャルル=アルベール・サングリアの思想に共鳴して書かれた《協奏的ニ重奏曲》(1931-32)。終曲〈ディティランブ〉では、ディオニュソスの本能をアポロンの法が制するかのように感傷的なヴァイオリンの高音にピアノが拮抗する。
⑤ウッディ・ハーマンの委嘱により作曲された《エボニー協奏曲》(1945)は、ジャズ界で話題に。事前にマルチ・リード奏者の持ち替えを含むバンド編成を調査し、トランペット5本といった特色はそのまま活用。《アップルハニー》のスコアを送ってもらって研究。ヒット曲《カルドニア》はお気に入りに。
⑥美術ジャコモ・バッラ、音楽ストラヴィンスキーによるバレエ「花火」は、未来派との接点を示す。ダンサー不在の光のバレエ。舞台上の立方体の内外で、色と光が踊る。音楽《花火》(1908)は、過去にディアギレフを驚愕させた一曲。ちなみに、グラズノフはこれを「才能なし。不協和音のみ。」と酷評。
⑦お葬式は2回執り行われた。1971年4月6日にニューヨークで没し、9日に同市マディソン通りの教会にて《パーテル・ノステル》(1945)で開始。これは《主の祈り》(1926)の改作。15日にはヴェネツィアで3000人の参列者に見守られ、《レクイエム・カンティクルス》(1965-66)と共に、正教会式の葬儀。
⑧メカニカルなものも好きだった。20年代以降の流行に先立って書かれた《ピアノラのための練習曲》(1917)。6段の五線譜表による自動ピアノのための一曲。人間には不可能。実は《結婚》(1914-17; 19; 21-23)にもピアノラの導入を試したが、機械と奏者の同期が困難で挫折。近年、復元演奏の試みも。
⑨デスクにいつも置いていたのは五線ローラー(ラストラール)。彼は既成の五線紙を好まず、白紙やノートにローラーで縦横無尽に線を引いて作曲した。余白も重要。任意の幅のローラーを設計し(設計図残存)”Stravigor”と命名。最初の断片的作品《タランテラ》(1898)の自筆譜にも痕跡が確認できる。
⑩唐突にティンパニが鳴り響き、なじみの旋律が聞こえた時、ピエール・モントゥーは驚いたろう。1955年4月4日に80歳を迎えたモントゥーは、古き良き友人から《グリーティング・プレリュード》(1955)を受け取った。
さぁ、今日はこれを私からあなたに(①から⑩へと続く秘密の一文。異名同音あり)。(了)