MSJ Web Plus 日本音楽学会オンライン・ジャーナル

  • コラム / エッセイ

今日の音楽家 「芥川也寸志」 

藤原 征生

(本稿は、2023年7月に日本音楽学会のX上に掲載された10回分の文章を、著者の許可を得て転載したものです)

 まず自己紹介から始めます。私は大学院で芥川也寸志の映画音楽についての研究を行い、現在は国立の映画機関に勤務しています。どちらかと言えば音楽学プロパーを自認する人間が映画についての研究で学位を取り、映画に関する研究職に就く――私の経歴はざっとそのように要約できるでしょう。
 このような若干ねじれたスタンスで私が研究者としての経済活動を成り立たせているという事実は、裏を返せば芥川の仕事が演奏会用作品に決してとどまらないことを意味すると言えます。すなわち、芥川の実像に肉薄するためには、映画・映像における実績は欠くべからざるものなのです。
 前置きが長くなりましたが、要するにこれは音楽研究と映画研究が本来持つ連続性および両者に依然として横たわる隔たりについての問題提起、そしてご紹介する芥川についての六つのトリビアが映画関連に偏っていることについての弁解です。ちなみに、この連続ツイートの題名も映画に由来するものです

事柄①芥川と映画音楽
 芥川は音楽学校在学中の1947年頃から、伊福部昭と早坂文雄のアシスタントとしてオーケストレーションや演奏に従事し、映画に携わり始めました。伊福部昭の映画音楽デビュー作『銀嶺の果て』(1947年)はピアノソロから幕を開けますが、これを弾いているのが他ならぬ芥川です。

事柄②映画音楽残酷物語
 『えり子とともに』(1951年、豊田四郎監督)を皮切りに映画音楽の作曲を始めた芥川ですが、音楽録音は映画作りの最終段階にあるために使える時間はごく僅かで、コピー機も未発達でパート譜も手書き、録音完了まで連日の徹夜は当たり前という過酷な労働環境でした。芥川の著作『音楽の旅』(1981年初版)には、録音直後に倒れて丸二日眠り続けた話、切羽詰まった状況にパート譜の写譜係が泣きだした話、撮影所からホテルに戻って入浴中に浴槽で寝落ちして体がブヨブヨになった話など、映画音楽をめぐる悲喜こもごも(?)のエピソードが綴られています。

事柄③赤穂浪士は4回目
 芥川は師の伊福部以上に自作を頻繁に流用します。例えば「赤穂浪士のテーマ」は、1955年の映画『たけくらべ』(五所平之助監督)を皮切りに1964年のNHK大河ドラマ『赤穂浪士』まで4つの作品に登場します。馴染みの旋律との思いがけない再会、これぞ芥川映像音楽の愉しみです。

事柄④映画出演
 芥川は父龍之介譲りのスマートな風貌と知的な話しぶりでTVやラジオに多く出演しましたが、映画『砂の器』(1974年、野村芳太郎監督)の一場面にもその姿を見せています。※『また逢う日まで』(1950年、今井正監督)への出演情報もありますが、こちらは兄で俳優の比呂志の誤りです。

事柄⑤映画に出た猫を譲り受けた
 芥川が音楽を担当した映画『猫と庄造と二人のをんな』(1956年、豊田四郎監督)に登場する猫の「リリー」は、映画のロケ地にいた飼い猫でした。猫のことが気になった彼は、なんと飼い主を捜し出して猫を譲り受けました。芥川の動物好きが伺えるエピソードです。

事柄⑥まさしく「昭和の作曲家」
 芥川は大正14(1925)年に生まれ平成元(1989)年に歿したために、年齢が昭和の年数と一致します。無論、彼の作品は現在も色褪せませんが、生涯が昭和の約63年間に包摂されるという意味で、彼ほど「昭和の作曲家」という呼称に相応しい人物はいないでしょう。(了)