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今日の音楽家 「ブラームス」 

三島 理

(本稿は、2023年5月に日本音楽学会のX上に掲載された10回分の文章を、著者の許可を得て転載したものです)

 西洋音楽の作曲家の中に、作品のスケッチなど、自身の創作プロセスを示す痕跡、資料を自ら破棄する人がいますが、19世紀ドイツ・ロマン派を代表する作曲家ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833–1897)もその一人です。
  公表する作品を慎重に選んでいたブラームスは、作品の資料を破棄し、後世の人が彼の創作プロセスについて知り得る情報を限定しました。彼の几帳面でこだわりの強い性質が表れているようです。
 こうした事情には、一般に、作曲家が未熟な作曲や、個人的な創作プロセスを後世の人に明かされたくない、また誤解されて伝えられたくないと思ったという理由があるのでしょう。残された資料によって過去の作曲家がどう扱われるか見ていたブラームスは、自分を守ろうとしたと考えられています。
 従って、ブラームスの場合、公表した作品そのものがとりわけ貴重な情報となります。そうした情報は密度が高いため、彼の創作プロセスの一端を明らかにすること、彼はこのように作曲していたと考えることに役立つに違いありません。
 彼の変奏曲作品では、第8変奏は8度音程のカノンで、そこから3曲目の第10変奏は3度音程のカノンであるという具合に、変奏を数える数と、カノンの変奏の模倣の音程の数に対応が見られます。これは、公表された作品から知り得る頭脳的な構造で、彼がどのように作曲していたかを示唆します。
  頭脳的構造は、個々の小曲についても言えます。例えば《3つの宗教的合唱曲》作品37の第1曲は、アルト1、アルト2の旋律がソプラノ1、ソプラノ2の旋律のそれぞれの3度下の音程で歌うという、一見19世紀音楽に普通にある素朴で単純な曲のようですが、実は二重の反行カノンとなっています。
 つまり、ソプラノ1の旋律「シ♭-ラ-ソ-ド-レ-ド-シ♭…」をアルト2の旋律「ファ-ソ-ラ-ミ-レ-ミ-ファ…」(固定ド)が、上下反対の動きをして追いかけており(反行カノン)、同時に、アルト1の別の旋律をソプラノ2の旋律が、上下反対の動きをして追いかけます(別の反行カノン)。
 これは、二組の旋律がそれぞれ完全に上下反対の動きをして二重に追いかけるという、極めて頭脳的に作られた厳格なカノンです。しかしブラームスは苦労の痕跡を見せていないので、簡単な曲として聴くことも可能です。まるで、作曲家に聴く耳や専門性を試されているようです。
 このように、一貫した頭脳的構造を、自然に溶け込ませて容易に気づかせないことは、ブラームスの音楽の特徴であり、彼のこだわりのようなものかもしれません。残された情報が限定されるブラームス作品は、密度が高く、丹念に構築されているので、様々な聴取の仕方を可能にするでしょう。
 ブラームスが破棄して失われた資料には何が書かれていたのか?ブラームスの音楽を聴きながらそれを想像するのも、楽しい聴き方であり、彼は他の作曲家と比べて、他者の見解ばかりでなく個人的な聴き方も重要な作曲家のように思われます。(了)