(本稿は、2023年6月に日本音楽学会のX上に掲載された10回分の文章を、著者の許可を得て転載したものです)
ハインリヒ・シェンカーは1868年、オーストリア・ハンガリー帝国ガリツィア地方(現在のウクライナ南部)に生まれ、ウィーンで活動した音楽家です。生涯をかけて彼が追究した音楽作品論は、第二次世界大戦後、弟子らの活動によって北アメリカを中心に「シェンカー風理論」として花開きました。
シェンカー自身は、バッハやベートーヴェン、ブラームスなど、もっぱらドイツ語圏の作曲家の作品を対象に、作品のしくみを解釈しました。しかし戦後は、それ以外の地域・時代の作品も、シェンカー風理論を使って分析されるようになります。現在は、ロックやジャズなどにも応用されています。
たとえばジャズをシェンカー風に分析した試みに、S. Larson著Analyzing Jazz: A Schenkerian Approach(2009年)があります。ところで当のシェンカーは、ふだんどのような音楽に触れていたのでしょうか。サブスクはもちろんテレビ放送もない時代です。
当時の最新のメディアに「ラジオ」があります。コンサート通いやスコア研究、自身による演奏のほかに、ラジオも音楽にアクセスできる大事な手段でした。どんな音楽を聴いていたかは、K. HewlettがMusic Analysis誌(第34巻2号、2015年)で調査結果を発表しています。
この調査によれば、シェンカーの日記には、1920年代半ばから没する1935年まで、多い時は月に50回以上、ラジオで音楽を聴いたことが記録されています。最初はヘッドフォンを使い、のちにラウドスピーカーも入手したよう。著作では、音楽に対して保守的態度を貫いたシェンカーですが
ラジオでは、ジャズやライトミュージック、同時代の音楽(当時の現代音楽)にもアクセスしていました。たとえばリヒャルト・シュトラウス。「サロメ」や「薔薇の騎士」をはじめ、さまざまなシュトラウス作品を鑑賞し、作品によっては肯定的な感想も綴っています。
20年代にはラジオから流れてくる音楽に集中し、批評の耳を向けていたようですが、30年代に入ると、聴きながらカードゲームもするようになりました。日記の書きこみも、音楽についてよりも、ゲームに関するものが増えていきます。今でいう「ながら聴取」に近い状態だったのかもしれません。
こうしたプライベートな音楽文化は、ドイツ語圏の古典的な傑作しか認めなかった「公的な」シェンカー像からすると、「意外と雑食だったのだな」と思わせます。ちなみに、ラジオで音楽を聴くとき、私たちには、演奏している人の姿(視覚情報)はみえず、音(聴覚情報)だけが届きます。
このような聴き方から、「アクースマティック」(みることなしに聴く)という語を思い浮かべる人もいるかもしれません。この語は、ピュタゴラスが自身の姿をみせずに音声だけで弟子に語った、という話に由来します。現代の音楽実践においても重要な形態の一つです。
シェンカーは、音と音の関係を「線」でつないでいくことによって、音楽作品を解釈しました。ラジオを通した音楽聴取は、音楽の流れを線で描く彼の理論に、なんらかの影響を及ぼしたのでしょうか――この問いについては改めて考えてみたいと思います。(了)