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第8回国際音楽学会東アジア支部大会報告

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貝田 かなえ

 2025年9月19日から21日の3日間にかけて、中国の南寧市にある広西芸術学院にて開催された第8回国際音楽学会東アジア支部大会(International Musicological Society East Asian Regional Association The 8th Biennial Conference)に参加した。南寧市はチワン族が人口の半数以上を占め、ベトナムとの国境に近い南部の地域である。筆者の住む関西から開催地の最寄り空港までの直行便はなく、廈門市を経由して向かうこととなった。日本人参加者とも現地で会うことができたが、そのほとんどが北京などの別都市を経由していた。正直、学会への参加を決意する以前は、南寧市という名前を聞いたこともなかった。

 今回の大会のテーマは”Heritage and Community”であり、発表題目を概観するだけでも”Traditional”や”History”、”Transmission”がキーワードとなっていたことがわかる。筆者は博士課程後期課程1年次で、今大会が初めての国際学会への参加だった。研究テーマは「マンドリンから見る西洋音楽受容」であり、日本におけるマンドリン受容を調査してきた。

 マンドリンは明治後期に日本へ流入し、今日まで親しまれている西洋楽器の一つである。しかし、同時期に受容されたヴァイオリンやピアノと異なって、マンドリンはこれまでずっと、主に学校の部活動で演奏されてきた。筆者も中学、高校とマンドリン部に所属し、マンドリンを演奏していたが、この楽器の「不思議さ」という重要な点に気づいたのは、「外」に出てからだったように思う。マンドリンは音楽の授業に取り入れられることもほとんどなく、音楽大学で専門に学ぶ楽器ともならなかった。この理由を探るべく明治期の音楽状況に着目したところ、浮かび上がってきたのが「明清楽」の流行である。そこで今回の口頭発表では、明治期に流行した明清楽と、その後まもなく流行したマンドリンと比較することで、マンドリンの受容とその普及の特徴を明らかにした。

 明清楽は中国の明楽と清楽を合わせて呼ぶ日本独自の呼称で、江戸後期から日清戦争の影響を受けるまで広く流行した。この流行を支えたのは「月琴」と呼ばれる撥弦楽器であったという。月琴にはフレットがあり、音程が取りやすく、さらに外来音楽という興味も相俟って人気を博した。演奏者のほとんどは素人だったとされるが、彼らは月琴で邦楽なども演奏したという。

 この「月琴」は、そのまま楽器名を「マンドリン」と置き換えてもよいほど、日本での受容の特徴に共通点が見られる。月琴流行当時、芸者は三味線の代わりに月琴を演奏したこともあったという。古くから存在した日本独自のお稽古事の文化はのちに、学校における部活動にも影響を与えた。学校運営において、日本では世界でも類を見ないほど部活動に熱心な国となった。(口頭発表中に見せた高校生によるマンドリンの演奏動画にフロアは釘付けのようだった)。 このようなマンドリンの受容について、明清楽が流行した明治初期から今日までの日本の状況を辿る形で口頭発表を行ったが、前述の高校生による演奏動画や、昭和期の例として紹介した古賀政男率いる明治大学マンドリンクラブの当時の映像がフロアの興味を絶やさないでいてくれた。質疑では、ドイツにおけるマンドリンオーケストラの事例やイタリア、イギリスでの撥弦楽器受容について活発な意見交換がなされた。日本では広義的に使用されている「月琴」という楽器名も、中国国内では詳細な使い分けがされているらしく、全て異なった呼称が付けられていることを知った。「月琴」と「阮咸」の混同がたびたび起こっていたことは認識していたが、中国出身の先生が鋭く指摘してくださったことにより、現地では異なった楽器だとされているものを、受容の過程で同じ楽器だと見なしたという深刻な事情を痛感した。これらはまさに、日本の「外」に出て初めて気づいたことだった。


 大会2日目のコンサートも刺激的だった。広西芸術学院の学生による踊りの演目や、ステージを埋め尽くす規模の合奏が行われた。ここで簡潔に述べることは難しいほど様々な音楽が目まぐるしく演奏されたが、なかでも中国の伝統楽器による大合奏は非常に興味深かった。編成には中国の撥弦楽器もあれば、二胡を含む擦弦楽器もあり、そして管楽器もあった。さらに、その中にはチェロやコントラバス、ティンパニといったクラシックオーケストラの楽器も混在していた。見たことも聞いたこともない、その編成用の合奏曲がコンサートのトリだった。とてつもない音量に包まれ、華やかな衣装や目新しい楽器に意識を奪われていると、あっという間にコンサートは終わってしまった。

 大学の前の通りには楽器屋がたくさんあり、筆者はコンサートの翌日、端から端まで全ての楽器屋に入った。店内で、コンサートで見た楽器を見つけるたびに嬉しくなり、試奏した。そしてまた、それらと同じく大量に並んでいるピアノやヴァイオリンにも圧倒された。ピアノは奇抜なデザインも多く、黒鍵が全て透明で、カラフルな彩色がなされていたものもあった。

 楽器店では、現地の方が二胡を演奏してくださった。筆者の同行者がヴァイオリンを弾けるということを店主に伝えると、壁に吊るされたヴァイオリンを手渡され、演奏を促された。店主も店内に偶然いた人も、日本人がヴァイオリンを弾いている様子を嬉しそうにスマホで(動画)撮影していた。「南寧の人は音楽が好きだ」と感じるシーンは多く、今大会が南寧市で開催されるに至ったことに納得した。


 大会後のツアーにも参加した。拙い英語で研究のことから母国のこと、好きなアニメーション作品や家族のことを話した。台北出身のある学生は日本の明治期について詳しく、彼女の口から「高等女学校」という言葉を完璧な発音で聞いた時には面食らってしまった。発表準備をしていた時には、異国の場で、限定的な時代の話をするにあたって「マンドリン受容の前に、明治時代の状況について一から説明しなければならない」と考えていた。明治期の状況について博識な彼女に出会ったことで、驚きと共に、自分の研究の広がりも感じた。彼女たちが目を輝かせて近代における日本の西洋音楽受容や音楽教育について語ってくれたことで、新たに「外」から日本を見る経験となった。これは今回の経験を通じて得た最も大きな成果であり、国際学会でしか成し得ないことだった。


 今大会の支えとなってくれたのは開催地である広西芸術学院の学生ボランティアである。飛行機の遅延もあり、筆者が南寧市の空港に着いたのは23時だったが、学生ボランティアが笑顔で出迎えてくれ、タクシーの手配や荷物の運搬を手伝ってくれた。そこで出会った一人の学生は連日キャンパス内でも会い、よく話をした。彼は会場内の案内はもちろん、南寧市内の案内も完璧で、夕焼けが綺麗な場所や、手土産を買うのにおすすめの場所を教えてくれた。こんな素敵な出会いがあるとは思わず、こちらは何も手土産を持っていなかったことを反省しながら、メモ書きをプレゼントした。次回大会は、2027年に九州大学で行われる予定だそうだ。最終日の閉幕式で、博多のグルメや街並みとともに開催地の発表がされた時には、拍手が起こった。世界各国から多くの研究者が参加した今大会の盛況に続く、素晴らしい大会となるだろう。今回出会った研究者やボランティアの方々と日本で再会できることを願い、その時には、研究の続きはもちろん、日本のおすすめの場所を教えるなど、こまやかなおもてなしもしたいと思う。

(かいだ かなえ/西日本支部)