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今日の音楽家 「フォーレ」 

田崎 直美

(本稿は、2023年5月に日本音楽学会のX上に掲載された10回分の文章を、著者の許可を得て転載したものです)

 「自分が死んだら葬式でフォーレの《レクイエム》を流してほしい」は、高校時代の音楽教諭の言葉である。思えば30年前の「あるある」だった。今ではこのフランスの巨匠と代表作の名は影を潜めてしまった感がある。勤務校(音楽教員養成系大学)の新入生に聞いても、半数以上が「知らない」という。
 私はといえば、大学時代に受けたフォーレの「洗礼」が忘れられない。それは《レクイエム》後に出会った、室内楽作品である。特に二つのピアノ四重奏曲とヴァイオリンソナタ、そしてピアノ三重奏曲では、謎めく感情のほとばしりに内奥をかき乱されるようで、気が付けば虜(とりこ)になっていた。
 ブルジョワ家庭の末っ子フォーレは夢見がちで物静かで、将来は聖職者になると思われていたそうだが、甘え上手で、母性本能をくすぐるタイプだったにちがいない。室内楽はもともと、サロンという上流階級の内輪の集いで演奏された。フォーレは、19世紀パリで女性が運営する音楽サロンの寵児だった。
 彼には気性の激しい一面もあった。1905年パリ音楽院長就任後の、首切りも厭わぬ断固とした改革が有名だが、作曲科の教授として、あるローマ大賞受賞学生に向かって「君は本当はこの賞には値しないことを肝に銘じておけ」と吐いたこともあるらしい。(今日なら「アカハラ」認定である)
 私は音楽文化史(または音楽社会学)という、音楽と社会との関係にスポットを当てる研究をしているので、ここではフォーレの個人としての側面だけでなく、当時のフランス人音楽家のコミュニティである「国民音楽協会」(自国の音楽を盛り立てる演奏会を多数開催) の一員としての側面を紹介したい。
 この協会は毎週の会合で演奏会用の新作(主に室内楽)を審査したが、委員であるフォーレの遅刻癖は際立っていたようで、議事録には𠮟責の言葉が残されている。しかし彼が多忙を理由に委員辞任を申し出ると、周囲は必死で彼を慰留した。後年フォーレは当協会の会長となる。仲間の人望は厚かったようだ。
 「国民音楽協会」で認められなかったフォーレの弟子たち(ラヴェルなど)が、対抗組織として「独立音楽協会」を立ち上げると(1910年)、フォーレは周囲の懸念をよそに、弟子たちのために「独立音楽協会」名誉会長を引き受けた。これは第一次世界大戦時(1914-18年)の彼の態度にも通じる。
 戦時下で音楽家たちは「フランス音楽防衛のための国民連盟」を結成し、敵国ドイツの現代音楽を公的な場で禁止することを呼び掛けた。フォーレはこの連盟に「フランス音楽の巨匠」として祭り上げられるが、彼自身は連盟への参加を拒む。そう、彼は音楽界には「多様性」が必要だと考えていたのである。
 実際「巨匠」フォーレは、反目し合う「国民音楽協会」と「独立音楽協会」をこの機に和解させることに奔走する。実現には至らずとも、排他的風潮が高まる戦時下で「互いを聴き合う」大切さを訴えた。そして、この時期のヴァイオリンソナタ第2番とチェロソナタ第1番は、彼のブレのなさを示している。
 同じ包摂性を宿すベートーヴェン《第九》が「拡散希望」型の音楽だとすれば、フォーレの作品は、あくまで聴き手が「ひそやかに」心通わせたいタイプの音楽なのかもしれない。来年(2024年)はフォーレ没後100周年、この機に彼を「推し」とする仲間が増えることを、ひそやかに願う。(了)