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うたうたいとものかき

星川 彩

第1回「やっとの思いで探り当てた声」

 「女性シンガーソングライターとして歌をうたいながら、女性シンガーソングライターの研究をしています」という自己紹介をするようになってから、約2年半が過ぎた。研究者としてのキャリアよりも歌い手としてのキャリアの方が一応長いのだが、筋道立ててものを書くよりも、いい歌をうたうことの方が何倍も難しいかもしれない。こんなことを言うと「博論もまだ出せていないひよっ子の院生が何を言っているんだ」というお叱りがどこからか飛んできそうだが、自分の歌が聴き手の美的判断にそぐわないとわかった瞬間の、あの感じ——あれはなんとも筆舌に尽くしがたいものだ。だから今は、学会発表よりも人前で歌うことのほうが怖い。

 2025年5月1日、わたしは女性ボーカル限定のライブハウスサーキット型フェス『HUG ROCK FESTIBAL 2025 GW』、通称「ハグロック」に出演した。渋谷駅近郊のライブハウス11軒が貸し切られ、昼の11時から夜の21時まで、計134組の女性アーティストが各々のステージを繰り広げる。持ち込んだ音源をバックに歌う演者もいれば、アコースティックギターやピアノで弾き語りをする演者もいるし、ガールズバンドも多数出演する。

 この「ハグロック」は一年に複数回開催されており、今年は初開催からちょうど10年にあたる節目の年だ。ライブハウスにおける女性シンガーソングライターの研究をしている自分にとってはこの上なく興味をそそられるイベントであり、2025年2月3日に開催された『プチハグロック2025ウィンター』ではいち観客として会場に足を運んだ。客席でジンライムをちびちびやりながらステージを楽しんでいたとき、ギターを背負った女性に「すみません、楽屋ってどっちですか」と声をかけられた。わたしを演者のひとりだと思ったのだろう。周囲を見渡すと、100人近くはいるであろう観客のほとんどが男性であり、フロアにいる男性=観客、女性=演者、という図式にそうそうハズレはないようだった。華やかなステージを前にして、わたしの脳裏には「もし自分が演者だったら」というifが浮かんでいた。

 さて、念願叶って今日のわたしは演者である。出演者用のリストバンドをもらうためにメイン会場の渋谷STAR LOUNGEへと向かうと、開場時間の数十分前であるにもかかわらず、すでにたくさんの観客が集まっていた。ざっと150人はいるだろうか。この日は一応ゴールデンウィークにあたるものの、暦の上では平日である。観客たちのハグロックに対するただならぬ熱意が、こちらにも伝わってくるようだった。受付付近では鮮やかな衣装を身にまとった演者たちが観客の列に沿って並び、声をかけながらチラシを配っている。「◯時◯分から△△でライブやります! 来てください!」「名刺お配りしてます!」……なるほど、初見のお客さんを自分の会場に呼び込むために、皆準備をしてきているのである。わたしは当然用意していなかったので、やられたなあ、と思いつつ数人に「チラシください」と声をかけた。なぜかその大半が「え!? もらってくれるんですか!?」と驚いていた。

 この日の自分のステージはCLUB MALCOMというライブハウスで、馴染みの中華屋『吉兆』のはす向かいにあった。その隣のファミリーマートで顔馴染みのお客さんとばったり会ったが、挨拶もそこそこに「チラシ持ってきた?」と訊かれた。鋭い。彼はわたしのライブのたびに美味しいお土産を持ってきてくれる、グルメなお客さんである。この日は大好きな電気ブランをお土産にいただいた。わたしの出番は二番目、すでにトップバッターの演者がリハーサルをやっている。楽屋には数名の出演者がいてステージの準備をしていたが、それ以降の演者の姿はまだ見当たらなかった。

 いつもの歌をいつものように歌う。愛用のYAMAHA L6は弦を張り替えたばかりで、じゃらん、とストロークをするたびに機嫌のいい音が会場に響いた。観客は十数人、いつものライブの客数よりも正直断然多い。歌いながらなるべく観客の全員と目が合うようにフロアを見渡したが、暗くて表情まではわからない。会場の奥の方に目をやると、ひとつ前の演者の物販に並ぶ観客の列が見える。ステージから観客の後ろ姿を眺めることはあまりないので、ちょっとなんとも言えない気持ちになる。わたしの持ち歌のほとんどはラブソングであり、それぞれの曲にはモチーフとなった人物がいるけれど、歌っているときに彼らのことを思い出したり、当時の感情を追体験したりするわけではない。それでもわたしは今、特定の誰かに向けて書いた言葉を、別の誰かに向けて投げている。これを聴いて皆はどう思うのだろう。その答えはたぶん、なんとなく、わからない方がいいな……といったことをぼんやり考えていたら、30分のステージは終わっていた。

 だいぶ前に作ったCDと、だいぶ前に撮ったマルベル堂のブロマイド、ここ数年で書いた論文の抜刷を物販に置いた。ブロマイドに至ってはもはや別人なので、いつも心の中で謝罪しながら売っている。CDなんて今日日売れないだろう、と高を括っていたが意外と売れた。「ふつうの人はCDなんてもう買わなくなった」とNegiccoが歌ったのは2013年のことなのに。もっと持ってくればよかったかもしれない。論文の抜刷は勝手に販売すると怒られそうなので、物販をお買い上げの方には問答無用でプレゼントした。

 物販は次の演奏が始まると同時に切り上げ、他のステージを可能な限り聴いて回ることにした。会場の雰囲気はさまざまで、緊張感漂うフロアもあれば、和気あいあいとした空気が流れるフロアもある。ガールズバンドが多く出演する会場ではたくさんの拳が突き上げられていたし、観客が演奏に合わせてピンクのサイリウムを振っている現場も見かけた。だが何より印象的だったのは、演者がみな自分の声のテクスチャーに対して、ただならぬプライドを持っているように感じられたことである。細馬宏通が『うたのしくみ』で論じていたように、それは歌い手が「やっとの思いで探りあてた声」なのかもしれなかった。

 作られようとしている歌を何度も口ずさみ、改め、ことばをメロディとともに声によって確かめていくうちに、シンガーソングライターは、自分にとっていちばん繊細な声を知らず知らずのうちに探りあて、そこに柔らかいフトンのような響き、尖った岩場のようにあやうい響きを割り当てていくに違いありません。1

 彼女らの声のテクスチャーに触れながら、ずっと考えていたことがある——いま歌っている彼女と、わたしの共通点はどこにあるだろう。やはり「女性ボーカル」であることだろうか。それでは自分が歌ってきた歌と、自分が女性であることのあいだには、どれくらいの関係があるだろう。あの空間に響いていたどんな声も、歌い手にとっての「いちばん繊細な声」であることは間違いない。だからこそわたしは、その声を彼女らがどのように内面化してきたのか、そして観客たちはその響きをどのように受け取るのか、考えずにはいられないのだ。

 帰りの埼京線はかなり混雑していて、体のまんなかで抱えたギターケースは明らかに車内の異物だった。黒い車窓に映った自分の顔は、リップが落ちていてパッとしなかったが、マイクに喰い入るようにして歌った勲章だと思うことにした。そしてわたしはいつものように、ものをかくための世界に戻ってきてしまうのだった。


  1. 1. 細馬宏通『うたのしくみ 増補完全版』(ぴあ株式会社、2021年)、p.22. ↩︎

(ほしかわ あや/日本ポピュラー音楽学会)