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今日の音楽家 「プロコフィエフ」 

菊間 史織

(本稿は、2023年4月に日本音楽学会のX上に掲載された10回分の文章を、著者の許可を得て転載したものです)

 今日(注:4月23日)はセルゲイ・プロコフィエフの誕生日。おめでとう!彼の誕生日は出生届では27日(旧暦15日)となっていたが、本人は誕生日は4月23日(旧暦11日)として生き、母親もそのように認識していた。孫もそのように主張していた。役所の書類が間違っていた可能性もあるのかもしれません。
 今日はプロコフィエフのロシアへの帰国について考えてみよう。1900年代はじめにグリエールが「魔法の王国」と呼んだほど美しいウクライナの村で、彼はロシア出身の両親にロシア語で育てられた。ロシアで学び、1918年に革命の混乱とドイツの侵攻(と徴兵)を避けて出国し、日本を経てアメリカに渡った。
 1922年、彼は突然ドイツに住むことを決めた。4年前にアメリカで知り合った恋人リーナはパリで放置され、ミラノで歌の勉強をはじめた。リーナは女友達の多いプロコフィエフに適当に扱われた側面もあったが、23年春には彼と演奏会を行い、やがて妊娠。その夏、彼はピアノ協奏曲第2番の改稿に熱中する。
 改稿のもとになったのは、1920年にコンスタンチノープルからマルセイユ港に到着した母が持参していた協奏曲第2番のスコア初稿(彼は出国時に母をロシアに残してきて、アメリカ時代にはその事実に悩まされた)。第2番は1922、23年に成功中だった第3番とは違い、すべてがロシアで書かれた作品だ。
 いろいろと波に流されながら、無国籍で魅力的な音楽を書いた彼だが、放浪する日々の心の支柱はどこにあっただろう?ひとつは23年末に出会う宗教、もうひとつは祖国とのつながりであったようだ。彼はロシアに近い雪深いドイツでロシア時代の旧友や母と同居することを選び、沢山のロシア文学を読んだ。
 スペインとウクライナ出身の両親をもつリーナはロシア語を話すことができたが、彼女の魅力はなによりコスモポリタンなところだった。彼はリーナとの愛を深めながら、一方では、ロシア時代に親友シュミットゴフと過ごした日々を懐かしみ、親友に捧げた協奏曲2番の改稿に熱中したのかもしれない。
 1922年のソ連樹立を経て、22、23年頃にはロシア側からのプロコフィエフへの連絡が再開された。友人ミャスコフスキーとの文通が再開され、雑誌「新しい岸辺へ」で彼がフィーチャーされ、彼の独創的なカンタータ「彼らは七人」がなぜかロシアで出版された。彼のほうからは楽譜や石鹸や菓子を送った。
 ソ連からの誘いは1925年に強まり、27年のソ連ツアーを導くことになる。はたからは彼が作曲への金銭的な保証からソ連に帰国したように見える。しかし、出発点はお金だろうか。ロシア側からの情報のプロパガンダ的嘘に用心しつつ、彼は外国ではよい作曲を続けられなかったという説にも一目置きたい。
 プロコフィエフは1924~26年に繰り返し、朗読を使った作品を構想していたが、その実現のためにはロシアに帰らなければならないと26年初頭に日記に書いていた。後にソ連に住んでから、彼は劇場音楽やオペラを次々に引き受け、ゴーリキー文学大学で翻訳や詩作を勉強した文学少女ミーラと愛を深めた。
 彼は帰国を考えた当初から常にソ連監禁の危険を意識していたが、その恐怖以上に、ロシア語を話し素朴に芸術を愛する人々との深く精神的な交流を求めていた。彼が最初に誘いに応じようと決めたのは、大きな劇場や音楽協会ではなく指揮者をもたない音楽集団ペルシムファンスからの招待だったのである。(了)