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今日の音楽家 「ラフマニノフ」 

神竹 喜重子

(本稿は、2023年4月に日本音楽学会のX上に掲載された10回分の文章を、著者の許可を得て若干の改稿を施し転載したものです)

 セルゲイ・ラフマニノフは、1873年4月1日にロシアのセミョーノヴォというところで生まれました。セミョーノヴォはノヴゴロド州中部にある古い街スターラヤ・ルーサの村で、ノヴゴロドからイリメニ湖を挟んで南に99キロのところにあります。
大元の先祖(父方)は、15世紀タタール支配下のモルドヴァで統治者の一人だったステファン4世。彼の子供たちがロシアのモスクワに渡り、孫のヴァシーリイがラフマニンというあだ名で呼ばれたことからラフマニノフという名字がつくようになりました。(「ラフマヌイ」という形容詞はかつてモスクワで「もてなし好き」、「気前の良い」、「浪費家」を意味していました)
 父方には音楽的才能に溢れた人が多かったのですが、ラフマニノフも例に漏れず小さな頃から優れた音楽的才能を示し、特に音楽的記憶力が突出していたようです。特待生でペテルブルク音楽院初等科に入りましたが、授業が簡単過ぎたり、逆に講義形式で難解だったりなどで退屈してしまい、次第にサボるようになりました。こっそりスケートリンクに通ったり、ペテルブルクっ子の間で流行っていた馬車鉄道の車両に飛び乗り、飛び降りるスリリングな遊びに興じていました。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、大人になってからは高速で車を飛ばすのが趣味だったようです。(要するにスピード狂) サボり魔だった10歳くらいの頃は、ヘルマン・ベーレンスのソナチネ、ベートーヴェンの《六つの変奏曲》ト長調、S. バッゲの練習曲、バッハの《インヴェンション》の第6番ホ長調などを弾いていました。
 幼少期は両親が離婚し兄弟が亡くなるなど辛いことが重なり、ラフマニノフ少年の心に大きな影を落としましたが、母方の祖母のソフィアと教会巡りをすることで癒しを得、まさにそれは至福の時だったようです。特にノヴゴロドの寺院や修道院の鐘の音や聖歌隊の歌声は素晴らしく、多くのインスピレーションを与えました。ラフマニノフ少年は次第に音楽創作をしたいという気持ちになり、よくベートーヴェンかショパンを弾くと言っては、実際にはちゃっかり即興の自作を披露していました。それを聴かされた祖母やその客人たちは、自分たちが騙されているなどとは露知らず、だったようです。
 サボり癖がばれてモスクワの名伯楽ニコライ・ズヴェーレフのところへ寄宿生として送り込まれてからは、毎日規律正しく、徹底的なディシプリンのもと厳しいスパルタ教育を受けました。ちょっとでも手を抜いた練習をしようものなら、雷が落ちるのは当たり前。またピアノだけ弾ければ良いというものではなく、洋服のアイロン掛けや靴磨きなど、身の回りのことは自分で全部するように躾けられたのでした。このような環境で、自立心とともにピアノの腕もめきめき上達し、アントン・ルビンシュティンやチャイコフスキーなど音楽の大家たちとも交流しながらキャリアを積んでいったのでした。

 さてさて、ラフマニノフは作曲家兼演奏家として有名ですが、こうしたある意味濃厚な学生時代を過ごした経緯から、実は優れた教育者でもありました。いたずら好きでお茶メン、けれど厳しい訓練を経て立派な音楽家になった彼は、例えばどんなピアノレッスンをしていたのでしょう?手がかりとなるのは、伝説のピアニスト、ルース・スレンチェンスカの自伝です。心温まるエピソードをご紹介しましょう。1934年、9歳だった彼女は、コンサートに出ることができなくなったラフマニノフの代行を務めました。その後、自宅のパリに戻った際に突然ラフマニノフから電話がかかってきて、「今パリに公演に来ているので会いたい。ホテルにいらっしゃい」と言われます。行ってみた途端にウェーバーのロンドを変ホ長調からホ長調に移調して弾くテストをされ(ロシアの音楽教育でよくなされる訓練)、猛練習した曲を聴いてもらいました。それからというもの、ラフマニノフがパリに来るたびに毎回宿題を出されてレッスンを受けることになりました。ラフマニノフのレッスンは他のピアノ教師とは一味違い、作曲家ならではの視点が活かされていて、曲の初めから終わりまでの流れや、全体の構成をよく見ることを教わったそうです。またある時、スレチェンスカがラフマニノフの《ピアノ前奏曲》ニ長調作品23−4 をさらって持っていくと、「あなたの音には色彩がないよ」と言われてしまいました。どうやって音に色をつけるのかが分からず困っていると、ラフマニノフはスレンチェンスカを窓辺に連れて行き、窓下に咲き乱れているミモザの花を指差して、「あの金色が見えるかい?あの色を、曲に表すんだ」とヒントをくれました。それでもピンとこずに困っていると、今度はピアノのところへスレンチェンスカを連れて行き、自分で弾いてみせ、自分の音と、スレンチェンスカの音の違いを分かりやすく示してくれました。機嫌が良い時にはロシア語の詩も朗々と読んでくれたそうです。(スレンチェンスカはロシア語がわからないので、「はて?」という感じでしたが)
 ところで、ラフマニノフには日本との接点がありました。その主たる例が山田耕作です。ラフマニノフは1917年に十月革命で亡命し、北欧経由で1918年に米国に渡りますが、ほどなくしてニューヨークのボヘミアンクラブ(ニューヨーク在住の音楽家の集い)に呼ばれました。そこに山田耕作もグッゲンハイマー夫人に招かれ出席していたのです。二人はドイツ語で談笑し、ラフマニノフは山田耕作に「もし機会があるならば、是非美しい夢のようなあなたの国を訪ねてみたい」と告げました。実際、ラフマニノフは日本公演を計画していたようですが、残念ながら関東大震災が起こり、実現は叶いませんでした。もし日本を訪れていたら、プロコフィエフの《ピアノ協奏曲第3番》のように冒頭で和の旋律を思わせる作品を書いていたかも知れません。
 ラフマニノフと山田耕作は、その後グッゲンハイマー邸で再会しますが、この時ラフマニノフは名ヴァイオリニストのクライスラーと熱心に日本音楽、ことにその音階について議論を交わしていました。山田耕作は、二人の日本音楽に対する深い理解と関心を目の当たりにし、特に二人が四分音を口ずさんで歌い出した時には驚きを隠せませんでした。やがて山田耕作は、ラフマニノフとクライスラーのリクエストによりいくつかの自作品をピアノで披露します。二人は山田耕作の作品に熱心に耳を傾け、懇切丁寧な助言と評価を行ったのでした。(了)