(本稿は、2023年5月に日本音楽学会のX上に掲載された10回分の文章を、著者の許可を得て転載したものです)
リヒャルト・ワーグナーのオペラを「音楽学」の観点から研究するスタンスは、大きく2つに分かれるだろう。すなわち、そのオペラを徹底して「ワーグナー研究」という視点から研究するスタンスと、それを「オペラ史」や「西洋音楽史」といった俯瞰的な視点から研究するスタンスである。
どちらが正しいという問題ではない。ただ、作曲家研究がもはや流行らなくなった今だからこそ、ワーグナーのオペラを「オペラ史」や「西洋音楽史」の視点から見つめてみると、ワーグナーの魅力がある種の「ヘタうま」から来ていることが見えてくる。――と言ったら怒られるだろうか(誰に?)
《タンホイザー》の結末では、主人公が救済されたことが分かりやすく伝わらなければならない。ワーグナーが設定した救済の証は、「枯れ木の枝に緑の若芽が吹き出す」というものだ。実際それがオペラ劇場の客席から見えるだろうか。劇場効果としてはヘタだ。だからこそ、音楽が救済の証となっている。
《ジークフリート》第2幕で主人公は、森の鳥から「山の向こうで炎の海を踏み越えれば、花嫁ブリュンヒルデを得られる」と教えられ、第3幕第2場ではさすらい人に「そこで寝ている女を起こそうと思っている」と告げる。同第3場でまさに目の前には寝ている人がいる。
女性以外にそこに誰がいるというのか!? それでもジークフリートは「男じゃない!」と驚愕する。実にばかばかしい。だが、このテクストでなければいけない理由がある。オペラには、ヴェルディが「parola scenica」、ブゾーニが「Schlagwort」と呼んだ、劇的転換点となる言葉が求められる。
したがって、ジークフリートの言葉は「初めて女性を見た!」では弱いわけだ。そこでその布石として、武具を付けた人間ならば「男」である、という独白を一旦させている。オペラとは本来的に矛盾や不自然なものに溢れている。オペラの戦略とは、そうした不足をいかに音楽で救済させるか、にある。
ワーグナーのオペラを音楽的に特徴づけ、最も馴染み深いのが「ライトモティーフ(示導動機)」だろう。しかし《指環》における〈大蛇の動機〉や〈槍の動機〉、《トリスタン》の〈憧憬の動機〉(半音階進行)、《パルジファル》におけるクンドリの〈魔法の動機〉など、その旋律は魅力的だろうか?
おそらくワーグナーという作曲家は、魅力的な旋律を彫琢することを最も不得手としていた。その意味で、《神々の黄昏》結尾の〈愛による救済の動機〉や《マイスタージンガー》の〈栄冠の歌〉が魅力的なのは、ワーグナーが力を入れて作曲した証左であり、そこにオペラの戦略があるからである。
もうひとつ不得手だったのは、器楽的な原理で曲を組み立てることだった。音楽動機をかたち作る上行/下行といった音程関係は、次にどのような反復、展開、変形、変奏へと進みたがっているのか。そしてどのような結末に向かいたがっているのか、というベートーヴェン的な作曲は最後までできなかった。
しかし、ライトモティーフの音楽的な造形と変容、言葉と旋律を緊密に結び合わせる手法、カタルシスをもたらすドラマ作法には、後期ルネサンスから同時代の固定楽想や主題変容に至る、あらゆる作曲原理とオペラの美学が流れ込んでいる。それらのいいとこ取りに長けていたのがワーグナーだった。(了)