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今日の音楽家 「ブーレーズ」 

東川 愛

(本稿は、2023年3月に日本音楽学会のX上に掲載された10回分の文章を、著者の許可を得て転載したものです)

 2025年に生誕100年を迎える20世紀フランスを代表する音楽家ピエール・ブーレーズ。リヨン山脈とフォレ山脈に囲まれた中央山地フォレ地方の小さな町モンブリゾンに生まれたブーレーズは、17歳(1942年)の時に音楽家になることを志して、占領下のパリに上京します。
 1944年元旦にマレ地区の屋根裏部屋に引っ越したブーレーズは、8月のパリ解放後に受けたパリ国立高等音楽院ピアノ科受験に失敗したあと、10月メシアンの許可を得て上級和声クラスに入学し、フォーリー・ベルジェールで電子楽器のオンド・マルトノを演奏しながら生活費を稼ぎました。
 ブーレーズがピアノ科を受験するほどピアノを勉強していたことはあまり知られていませんが、姉の弾くピアノの音に強く惹かれたブーレーズは6歳頃からピアノを学び始め、サン=テティエンヌまでレッスンに通って勉強を続け、パリに上京後もドイツの有名なピアニストの息子に師事していたようです。
 オンド・マルトノを演奏しているブーレーズの姿は、ちょっとイメージが湧かないでしょうか。しかしこの時期ブーレーズはマルトノを含む室内楽作品(のち撤回)をいくつか創作しており、生活のために演奏していただけでなく、楽器としてオンド・マルトノに関心を持っていたことがうかがえます。
 またブーレーズは、1947年には早くもフランス国営放送局のピエール・シェフェールのスタジオに出入りしていました。実はブーレーズは、ミュジック・コンクレートの誕生として知られるシェフェールの歴史的な作品《噪音のエチュード集》の制作にあくまで裏方的な役割でしたが関わっていたのです。
 シェフェールは5曲からなるエチュード集のうち、「黒のエチュード(ピアノのエチュードI)」と「紫のエチュード(ピアノのエチュードII)」の2曲に使う音素材として、プレパレーションのない伝統的なピアノで「音の生地」になるような音を演奏して、録音してほしいとブーレーズに頼みました。
 その3年後ブーレーズは1951〜52年にシェフェールが主宰するミュジック・コンクレート研究グループ(GRMC)の第1回・第2回研修に招聘され、2曲のエチュードを制作します。この制作は、くしくも厳格なセリー音楽の頂点として知られる2台ピアノのための《構造I》の創作と同時期に行われました。
 ブーレーズはその後シェフェールと袂を分かちますが、ミュジック・コンクレートとブーレーズの関わりはこれで終わりません。1955年ブーレーズは再びシェフェールのスタジオに戻り、実験映画の作家ジャン・ミトリとの共同作品《機械交響曲》のためにミュジック・コンクレートを制作します。
 ミトリの様々な機械の反復するリズミカルな動きを編集した映像は、アベル・ガンスの3画面によるポリヴィジョンで映し出されることを想定したもので、ポリフォニックな映像と音楽の同期が模索されましたが、音楽は映像と別に制作されたこともあり、思うような仕上がりにはならなかったようです。
 この制作もまたブーレーズにとって生活費を稼ぐためだったというウラ事情はさておき、誕生日に因んでブーレーズのあまり知られていない一面をご紹介しました。モンブリゾンの少年時代を含めて、駆け出しの頃の足跡にはのちの活動に繋がるヒントが少なからず隠されているように思います。(了)