(本稿は、2023年5月に日本音楽学会のX上に掲載された10回分の文章を、著者の許可を得て転載したものです)
ヴァーグナーの初期作品を主な研究対象とする私が今回取り上げるのは、最初期の創作である全5幕の悲劇《ロイバルト》です。ヴァーグナーによれば、13-15歳頃に手がけたとのこと。そしてその内容は、若きヴァーグナーに一体なにが…と戦慄するような、とても奇怪なものです。
全62頁(内、記述部分は全61頁)にも及ぶ自筆台本には、ト書きによる歌唱指示や歌詞が4カ所含まれています。しかし楽譜は現存せず、またヴァーグナー自身の言葉からも、恐らく音楽は付けられずに終わったのだろうと考えられています。あらすじは次のとおりです。舞台は中世のドイツ。
—主人公ロイバルトの父が、怨恨からローデリヒに毒殺される。幽霊となって現れた父親にその事実を知らされたロイバルトは、復讐を誓い、ローデリヒやその家族を次々と倒す。そして皮肉なことに、仇敵の娘アデライーデと愛し合うことになる。運命に翻弄され、次第に狂気を帯びていくロイバルト。
健気に寄り添うアデライーデもついにはその手にかかり、ロイバルトも絶命する—。以上、自筆台本に「Ein Trauerspiel(悲劇)」と銘打たれているとはいえ、この闇の深さはなかなかのものです。ちなみに、人間、幽霊の他に魔女も登場するのですが、その理由は自伝に記された次の言葉からわかります。
(《ロイバルト》は)主にシェイクスピアの『ハムレット』、『マクベス』、『リア王』、そしてゲーテの『鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』に着想を得た。実際に、プロットは『ハムレット』のヴァリエーションに基づいている。(ヴァーグナー『我が生涯』)
では『ハムレット』との主だった共通点を挙げてみましょう。(1)主人公の父親が毒殺され幽霊となって現れる。(2)主人公がヒロインの父親を討つ。(3)主人公が狂気を帯びる(但しハムレットの狂気は演技)。これらは話の軸をなす重要なトピックでもあります。そして、次に注目したいのがヒロイン。
自伝には次のような一節があります。「このヒロインへの人目をひくドイツ人らしからぬ命名は、ベートーヴェンの(歌曲)《アデライーデ》に対するわが熱意ゆえと言えよう」。さらに「ベートーヴェンがゲーテの『エグモント』に付けたような音楽を《ロイバルト》のために書きたいと考えた」。
つまり、創作過程において台本と音楽の両面でベートーヴェンの影響を受けたと明言しているのです。ちなみに自伝の作成は《ロイバルト》創作の4,50年後のこと。この時、ヴァーグナーの手元に《ロイバルト》の台本はありませんでした(自筆台本は紆余曲折の末、20世紀後半にバイロイトに帰還)。
ヴァーグナーは数多くの著作を残していますが、このようにベートーヴェンと自らの創作との結びつきを示す記述が度々登場します。巨匠からの影響を印象づけようとする意図を指摘する考えもありますが、やはりヴァーグナーのベートーヴェン受容を過小評価することはできません。
こうして《ロイバルト》は、愛し合う2人の死で終わりを告げる音楽付きの劇として構想されました。そして、文豪に頼りつつも大規模な台本を書き上げるその意欲。最初期の創作でありながら、すでに様々な面において、のちのヴァーグナー作品の萌芽が現れていると言えるでしょう。(了)